暑かった夏も終わろうとしています。車を運転していると、道路際の縁石の上に花束がおかれているのが見えました。この十字路で亡くなった人がいたわけです。おそらく、家族か親しかった者が故人を偲んで置いたのでしょう。事故で亡くなった本人はすでに墓地に埋葬されているのでしょうが、あの日あの時に、ここで一人の命が終わったという事を忘れられない者がいるのです。かわり映えのしない道路の一角は、その人にとって忘れ得ぬ場所となったのです。これも一つの墓標です。わたしたちが死んだときには、誰がわたしたちを偲んで墓標を建ててくれるのでしょうか。夏の終わりには、大学の後期授業が始まりますが、ある年の9月に、クラスの出席をとっていたら、前期授業にでていた男子学生が欠席でした。学期の初めからどうしたのかと、いぶかしく思っていると、同じクラスの学生が、彼はバイクの事故で死んだと教えてくれました。明るくて積極的な青年でした。わたし自身も、もし彼の事故の場所がわかったら、花束をおきたいなとも感じました。この世には、様々な墓標があります。その一つ一つに故人を大切に思った人々の気持ちがこめられています。ただ、聖書の記事によれば、イエス・キリストの墓標はありません。復活されたからです。使徒パウロの墓標もありません。ローマで裁判を受けたことまではわかっていますが、密葬されたのでしょうか。旧約聖書をみると、神に愛されたエノクの事が書かれています。「エノクは神と共に歩み、神がとられたのでいなくなった。」(創世記5章23節)なんと素敵な終わりかたでしょう。地上の墓標は、故人を偲ぶ人々が建てますが、神が偲んでくださるときに、それは、大空の雲だったり、夜空の星月だったりするのでしょう。これも素敵なことです。「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。」(詩編19編2節以下)ただ、ここで「知識」と訳されている原語のヘブライ語(ダアット)は、あまり良い翻訳ではなく、手元のヘブライ・英語辞書ではresolutionと訳されています。それは神の揺るぎない意志という意味です。ですから、この部分を原語に忠実に訳すと、「天は神の栄光を語り継いでいる。そして大空は神の両手の業を告げている。昼は昼に対して言葉を語り、そして夜は夜に揺るぎない意志を示す」となるでしょう。この地上の年月が終わっても、天地の創造主は、揺るがない意志をもってわたしたちの存在を消えないものとしてくださるのです。大空の墓標がそのしるしです。