印西インターネット教会

国定忠治の別れの言葉とキリストの十字架について学ぶ説教

「赤城の山も」           マルコ8:27-38

今日の日課はマルコ福音書における分水嶺とも言われている部分です。ここを一つの頂点として、後半の部分は苦難の十字架の谷へと下って行きます。福音書の読者が十字架の贖罪の奥義をと救いを十分に理解することができるように構成されています。分水嶺というのは分かれ道ということです。

分かれ道といえば、「赤城の山も今宵限りか」、という台詞は国定忠治というヤクザの親分が故郷の群馬を去り、会津に逃げていくときの最後の言葉です。これには東海林太郎の「男心に男が惚れて~、名月赤城山」という歌もあります。また、広沢虎造の浪曲「国定忠治・赤城落ち」があります。忠治は1810年、江戸時代後半の生まれでした。その少し前の鹿島の親分が飯岡助五郎、この人は1792年生まれで、天寿を全うした数少ない侠客とも呼ばれています。清水次郎長は1820年生まれ。オーストラリアでは、Ned Kellyが1855年生まれのアウトローがいました。忠治は、天保の大飢饉の際にはまだ20歳を少し越えたくらいでしたが、困った農民を助け評判がよかったそうです。大親分として、数百人もいいた子分も可愛がったようです。ですから、「可愛い子分のてめえたちとも、別れ別れになるかどでだ」という台詞が残されています。赤城の山からは無事に逃げたのですが、最後は逮捕されて磔の刑になっています。

当時の権力者から見たら、イエス様も支配には邪魔なヤクザのような存在に見えたかもしれません。イエス様もそのことは感じており、聖書に別れの言葉が残されています。

イエス様の一行は、色々な村に行って真実の神、神の愛を伝えようとしました。そうした伝道の旅の中で、イエス様は弟子たちが自分を誰だと思っているかを尋ねました。すると、ペトロが「あなたはメシアです」と答えました。弟子たちにも、神のメシア、つまり救世主がイエス様だというのは問題なかったのですが、そのあとでイエス様の語った十字架の苦難の話は驚くべきことでした。人の子とはメシアのことです。31節以下にあるように、聖書によればメシアは苦しみ受けたのちに復活することになっていました。今日の日課であるイザヤ書50章にも書いてあるメシアの苦しみです。ところが、ここで弟子のリーダーであったペトロがイエス様の発言を遮って反対しました。マタイ福音書の並行記事を見ますと、「主よ、とんでもないことです」とまで言ったと書いてあります。彼は、聖書が伝えるメシア像を信じることができなかったということです。これはマルコ福音書のテーマでもあります。人間は自分の力で神の言葉を信じることができない。神を信じているのではなく、神についての自分の考えを信じているにすぎない。ここでイエス様はそれを強く批判しました。「サタンよ退け」は本当に厳しい言葉のようです。しかし、直訳すると「わたしの後ろにつけ」となり、それほど否定的な表現ではありません。思いあがってイエス様の前を行ってはいけないよという意味です。やさしい配慮に満ちた言葉です。

イエス様が殺されるのは、一般人にではなく、イエス様の活動を迷惑に思った宗教的指導者によるものでした。神を知っているという自負していた者たちが、この罪を犯したということです。宗教指導者たちだけでなく、ペトロも、究極のところ、人間的な判断に立っていたのです。

わたしたちもほとんど例外なく、人間的な判断にたっています。例えば、問題ある人間とわたしたちが判断する人間が現れますと、その人を細かく観察し、悪いところを心の中で数えあげ、箇条書します。「あの人は、態度が悪い、なまけものだ、誠意がない等々。」そして、その人の行動に立腹し、怒り、自分の人生から排除しようとします。実は、これが人間的判断なのです。イエス様が伝えた神の愛は逆です。悪い点は、すべて知っているのですが批判しません。むしろその人が立ち直ることができるように苦労します。また、その人の行動によってどのような迷惑がかかろうとも、怒ったりしません。あくまで愛を持って接するのです。パウロが有名な第一コリント書13章の愛の賛歌で「愛は自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない」と述べている通りです。ここで、自分の利益を求めないとは、自分の事柄を第一にせずあくせく追求しないことです。「キリストも自分の満足はお求めになりませんでした」(ローマ15:3)と書いてあるとおりです。いらだたず、というのは人から挑発されて怒りを爆発させないことです。恨みを抱かないとは、もともとは会計係が勘定する用語であり、悪いことばかりを数え上げないという意味です。しかし、こうした態度は、自然のままの人間には不可能です。わたしたちは、人の目の中にある小さなゴミは気づくが、自分の目の中の大きなゴミは気づかないのです。聖書はそのように告げています。ですから、人間が真実の愛を持つことは、ある種の奇跡です。神の与える聖霊の内在によってのみ可能となる奇跡なのです。外側の人間は変わりません。しかし、罪人の中に宿って下さる聖霊が、自分の事柄を第一にせずあくせく追求しないこと。人から侮蔑され、酷い評価を受けて挑発されても怒りを爆発させないこと。恨みを抱かないで、人の悪いことばかりを数え上げない姿勢を持つようになることを可能にさせるのです。

このことは、赤城の山ではないのですが、可愛い自分自身と別れること、イエス様の言葉で言えば「自分を捨て、自分の十字架を背負う」ということによって実現します。つまり、古い自分に死ぬことです。その時、愛の神が共に歩んで下さることを実感できるようになるでしょう。ある外国の牧師が述べていますが、現代のキリスト教はこの神の愛に対する自己犠牲を形式的にしか行っていないので力のない宗教になっているということです。キリスト教会をレストランにたとえると「神の愛」という特別メニューがあるにもかかわらず、出てきた料理はいかにも貧弱なまがい物に過ぎないことがあります。その理由は、教会が組織維持の手段になってしまったからです。古い習慣や、神の愛に反するものを、捨てることが出来なくなったからです。

わたしたちの信仰観も同じです。自己を捨てず、救い主に結びつかないなら、人間的なものにとどまるといえるでしょう。ペトロでさえ、この時はまだ、人間的な信仰観でした。現在、イエス様がわたしたちと共にいたとしたら、そして、わたしたちの中に人間的な信仰観を見たら、「サタンよ下がれ」と言うでしょう。つまり、自分の利益を求めることを第一にして神を無視してしまうのではなく、わたしの後ろについてきなさいということです。信仰も単なる自分探しの旅、自分を守る逃亡の旅になってしまします。

ただ、そこが終わりではありません。34節にあるように、イエス様は弟子だけではなく群衆も集めて、彼らに十字架の道を説いたのです。十字架とは見捨てられた姿です運命に見放されることです。イエス様はわたしたちの身代わりとなって神に捨てられ、絶望の世界に落ちてくださったのです。「伝道者になることは絶望に一番近い人間になることである」とある聖書学者が書いています。絶望です。これこそが信仰の土台です。自分に別れを告げること、ここに信仰の原点があります。

自分自身の世界も今宵限りだ。可愛いい子分のような自分の利益、自分の勘定書き、自分のストレスとも今宵限りだ。そう思えるところに救いがあります。つまり、その時に、個人の決定や、恣意によらない外からの導き、神の導きが働き、救い主イエス・キリストが共に歩んで下さるという聖霊のはたらきが始まるからです。「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれたのです」(第一コリント1:30)と、パウロは言いました。「神によって」ということが大切です。それは、自分ではまだ本当には理解していなくて良いという意味です。古い人生との別れの後に、何が待ち構えているかを知らなくてもいいのです。神に先導していただくからです。自分に別れを告げたものは、神が共におられることを発見します。そして、苦難を恐れません。苦難の僕キリストとともに、苦しみや屈辱において、まさに救いがあること、最大の赤城の別れ、自分の死そのものの中にも救いがあることを確信するのです。

 

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