日本は相変わらず「忖度文化」が支配しています。我が家の三男などは、自営業をしていますが、彼の尊敬する人物は、アップル社の故スティーブ・ジョブス氏です。ジョブス氏には忖度という中世の遺物は関心の対象外でした。ジョブス氏の関心事は、結果でした。結果のみでした。結局、忖度と言うのは、上下関係や周囲の人々の意見に振り回されて、いわば「安全路線」を歩む人生を送ることになります。しかし、これが常に安全かというと、そうではありません。人間は、忖度によって周囲の人間から非情なプレッシャーも受けるからです。ジョブス氏でも、自分が造ったアップル社から追放されることがありました。日本の社会では、同じことが起こったら、つらくて自殺する人がいるでしょう。残念なことです。これを防ぐ方法はあるのでしょうか。あります。そしてそれは、歴史的に正しいと証明された方法なのです。そのことが、今回、使徒言行録の聖書研究でわかりました。初期の時代のキリスト教があれほどの迫害を受けたのにも関わらず、意気消沈や、自暴自棄や、自己破壊に至らなかったのは、救い主イエス・キリストへの信仰があったからです。彼らの強さではないのです。信仰とは、自己の存在ベクトルが自分や周囲の人間に向けられているのではなく、神から自分へと向けられている絶対愛のベクトルを発見することだからです。同じキリスト教信徒でも、自分からベクトルを神に向けようとしている人は、人間への忖度が、神への忖度に変わっただけです。それは、純粋信仰ではありません。日本に多く見られる新興宗教にもこうした傾向が見られます。その場合には、自分がどんなに立派な信仰者であるか、他人が自分をどのように評価しているかが価値判断の基準です。パッキリ言って、それは聖書が教える信仰ではないのです。こういう価値判断では、「いじめ」などに対抗することは無理でしょう。日本からいじめをなくすことはできません。聖書も人間の中に潜む罪の事を詳しく教えています。しかし、正しい信仰観を持つことによって、自分に対する人間社会のプレッシャーを打ち破ることはできます。初代の教会の信徒たちがそうでした。彼らはやがて、あの強大なローマ帝国さえキリスト教化してしまったのです。さらに、他の例もあります。わたしが現役の頃活動していたルーテル教会のもととなった、マルチン・ルターの宗教改革です。これも、忖度ではありません。16世紀の人々は、ローマ法王をあたかも神であるように、忖度していたのです。その忖度にルターより先に引導を渡したのは、宗教改革者フスでした。残念ながら、彼は極端ないじめともいえる「火あぶりの刑」で殺害されました。ルターも同じ運命をたどることが必至でしたが、忖度しないという彼の方針は変わりませんでした。彼が主張したのは、聖書と信仰そして恵み(絶対愛)でした。現在、宗教改革から500年以上たっていますが、日本の文化の中に根強く残る忖度は、多くの人々を傷つけ苦しめ、死に至らしめています。この辺で、中世の人間関係にピリオドを打ったらどうでしょうか。聖書にも、「真理は自由をもたらす」と書かれています。神の絶対愛の真理を知ったら、被造物に過ぎない人間からのいじめなどは無に等しいものです。それでも、なかなか心の傷が癒されない方は、「炎のランナー」という映画を見てください。これは、パリ・オリンピックでの実際の出来事をあつかったものです。主人公のエリック・リデルの生き方は、まさに初代教会の信徒のようでもあり、ルターのようでもありました。みなさんも、この映画を見たら大きな勇気を与えられることでしょう。いつも述べていますが、この絶対愛への信仰を広めたいと思って、少しでも苦しむ者が減ることを願って、この印西インターネット教会を維持しています。質問のある方は、お問い合わせでさらにお尋ねください。明るい人生を発見できると思います。