網走の沖合でサケを釣っていた3人が乗ったゴムボートが高波で転覆し、一人が亡くなりました。彼らは全員が救命具をつけていたそうですが、波に巻き込まれてしまったのでしょう。海は危険です。我が家でも、子供たちが小さいころは、毎年、伊豆高原にある知人のマンションをかりて海水浴にいっていました。浮き輪だけでなく、ゴムボートもありましたので海岸から少し離れたところに出たこともあります。しかし、そこで分かったことは、海岸には目に見えない離岸流という流れがあって、あっという間に、沖合に流されてしまうということです。そして、実際に流されそうになって、親子で懸命にオールで漕いで岸に戻ってホッとしたこともありました。網走の事故現場では波が1メートルくらいあったそうですが、沖合ではもっと激しかったことでしょう。漁船に乗って釣りに行ったこともありますが、陸上から海を見て、少し白波が立っているくらいでも、沖に出ると四、五メートルにもなっています。漁船なら沈みませんが、ゴムボートではあっという間に波にのまれ、海中に引きづりこまれてしまいます。救命具をつけていたのに死亡したのはそのためでしょう。聖書を見ると、イエス様の弟子たちの多くは漁師でしたが、彼らも自然の恐ろしさは知っていました。わたしが、イスラエルに留学していた時に、ガリラヤ湖で二千年前の木造船が泥の中から発見され、展示されていたので見る機会がありました。長さは5メートルくらいで、公園の池などにあるボートよりも大きく細長いものでした。イエス様の弟子たちも、このようなボートに乗って漁をしていたのだなと思いました。「弟子たちは群衆を後に残し、イエスを乗せたまま漕ぎだした。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。」(マルコ福音書4章36節以下)ガリラヤ湖に行った時には、同じ研修をしていた外国のルーテル教会の牧師たちと、湖畔にテーブルを置いて聖餐式をしました。しかし、その聖餐式のさなかに突風が吹いて、テーブルを押さえていないと飛んで行ってしまうような状況でした。台風と変わらないくらいの強い風でした。弟子たちも、この嵐に遭遇して、命の危険を覚えました。プロの漁師だった彼らが怖がるのですから、相当な強風だったのでしょう。そこで、彼らはイエス様に助けを求めました。しかし、イエス様は枕をして眠っていたのです。イエス様が起き上がって、波に命じると、湖水は静かになりました。不思議なことです。おそらく、自然現象とイエス様の願いが一致したのでしょうが、モーセの前の海が開けてエジプトを脱出できたときにも似ています。これに似た例は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」にも出ています。時のキリスト教徒を弾圧しようとしたイラクの王が「信仰があるなら山を動かしてみよ、お前たちの祈りが聞かれないなら、お前たちを全員処刑する」と言ったのです。そこで、クリスチャンの村の中で最も敬虔な靴屋さんが選ばれて、山の麓で祈ったところ、山が崩れて動いたそうです。そのことで、イスラム教徒だった王もキリスト教信仰に畏敬の念を持ち、以後は彼らを平等に扱うようにおふれを出したそうです。これも、地震などの自然現象と祈りのときが一致したのですが、不思議なことは本当にあるものです。北海道でも、そのような奇跡が起こっていたら良かったのですが、残念ながら、一人は犠牲になってしまいました。神の平安を祈ります。