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問題解決の方法を聖書から学んでみよう

使徒言行録6章1節15節  文責 中川俊介

人が集まれば問題の発生は避けられません。教会も例外ではありません。「だからと言って、わたしたちが教会に失望するというのは、間違っています。教会とは、わたしたち罪赦された罪人たちの群れなのです。」[1] どんな問題でも問題が激化するときは、悪魔の暗躍の時ですが、そんなときにこそ信仰的に解決することが大切です。1節にあるように、初代教会でも弟子の数の増加にともない、ある種の問題が生じました。当時のユダヤ人はイスラエルに住むだけでなく、地中海を中心とするローマ帝国内に散在していました。国内のユダヤ人はヘブライ語やアラム語で生活できたでしょうが、国外からのユダヤ人は公用語であったギリシア語が必須でした。そして、「ユダヤ人の世界全体では、ユダヤ系とギリシア系の間には、ある種の緊張関係があった」[2]、のです。ではその苦情の根源はどこにあったのでしょうか。それは国外組の人々からでした。おそらく、エルサレムに生活の基盤を持たない人々は、財産提供による配給に頼らざるを得なかったのでしょう。特に、この場合には、貧しい寡婦のことが問題でした。「もしやもめたちが欠乏に苦しまなくてはならなかったのなら、教会の愛の業は働いていないことになる」[3]、と言えるでしょう。一家の柱である夫を失い、また異国での生活を送る弱い立場の者が軽視されてはいけないのです。また、「多くの寡たちが異郷の地からエルサレムにやってきて、そこで生涯を終えようとしていたことが知られている。」[4] ですから、彼らは神の救いに望みをかける敬虔な人々だったことでしょう。ある面で、これは生活の面だけではなく、イエス様の教えの実践にかかわることでした。「使徒たちは、それを真剣な事態として取り組みました。」[5] 教えの実践、つまり生活と教義は分離されるべきではなかったのです。わたしたち自身はどうでしょうか。

2節には、それに対する対応がでています。使徒たちはこの弱い立場の人々からの訴えを軽視しませんでした。早速、会議を招集したのです。「アナニアとサッピラの問題は個人的な問題でしたが、ここには集団の問題があります。」[6] 問題解決の方法も信仰によるものです。弟子たち全員が集まりました。そこでの使徒たちの意見は意外なものでした。常識的に考えると、ここでは捧げられた財産や金銭を管理していた使徒たちが、配給の平等な実施を行うのではないでしょうか。ところが聖書の記録をみますと、会議はまったく予期しない方向に進みました。これも聖霊の導きといえます。原語では、「神の言葉を放置して食卓に仕えるのは喜ばしくない」と使徒たちが語ったと書いてあります。神の言葉が最優先されるべきだということです。「教会において、いったい何が中心なのかと言えば、礼拝とみこばによる指導だからです。礼拝の説教と、みことばによる指導に専念できる人を確保できない教会は、決して伸展しません。」[7] これが、問題にたいする使徒たちの信仰表明でした。わたしたちでしたら、衣食住を最優先するのではないでしょうか。ただ、「食卓に仕えるというのは必ずしも祈りや教えより低い地位にあったという意味ではなかった」[8]、のです。では何故、使徒たちは、配給の公平な分配という問題に直接介入しようとしなかったのでしょうか。この点を皆で話し合ってみましょう。

神の言葉を第一にするといっても、この重大な問題を使徒たちは軽視したのではなかったのです。3節にあるように、早速、分配担当の責任者7名を選出し、責任を委託することにしました。7という数には意味が込められていたことでしょう。12使徒の数がイスラエルの12部族を示すとしたら、7は天地創造の数であり、世界全体を示すものです。ここで、たとえ衣食住は大切なことであっても、それを教会のリーダーである使徒たちが最優先して担当するということを避けたのです。神の御言葉の最優先というのは、イエス様の教えから来ているのは明白であり、イエス様は衣食住に触れ「天の父は、これらのものがみなあなたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:32以下)と教えたのです。使徒たちもこのことは忘れていませんでした。分配の問題に携わる人々も、霊と知恵に満ちた人々を選ぶように命じました。

ただし、これも強権的な上からの命令ではなく、使徒たちは集まった弟子たちの総意を尋ねてから決めたことになっています。5節にあるように、集まった人々はこの提案に賛成しました。そして、彼らが、信仰と聖霊に満ちた人々を選出しました。現代の教会でもそうですが、役員が信仰と聖霊に満ちた人々であるときに伝道は前進します。どうしたらそういう人物を選ぶことができるかを皆で考えてみましょう。

5節に、選ばれた人々の名前が列記してあります。そのなかで、ステファノが第一番に挙げられていますが、彼の信仰が特に豊かだったためでしょう。「選任された七人の役者はすべてギリシア風の名を持ち、ギリシア語系のユダヤ人に属する。」[9] 特に最後に名前が出ているニコラオは改宗者であって、もともとはギリシア系の異邦人だとも考えられます。つまり、ギリシア語を話すユダヤ人から苦情が出た際に、使徒たちは7人のギリシア系の人を世話係にして対応したのです。「ここにはなんと教会の心の広さ、大きさがうかがえるではありませんか。」[10] 6節では、聖書の中で按手の儀式が初めてでてきます。こうして、7人は公式に教会の分配に関する責任者とされたのです。現代でも牧師の按手式において手を頭に置いて祈り、責任を委託する習慣は残っています。旧約の時代には、これは後継者に権威を授与する儀式でもありました。

7節には、伝道の進展に関する短い記述があります。この時点では、使徒の伝道はエルサレムを中心としていたことがわかります。エルサレムには神殿があったために、ローマ帝国内に散在していた敬虔なユダヤ人は神殿に巡礼することが習慣になっていたと思われます。そうした人々に伝道することが非常に効率的であり、後にはキリスト教がローマ帝国全体に拡大することとなりました。また、この報告には、大勢の神殿の祭司も信仰をもったことが書かれています。「これらの祭司たちは、大祭司、祭司長のような上層部に属する祭司ではなく、身分の低い平祭司であったのであろう。」[11] 当時の神殿には8千人以上の平祭司が働いていたことが知られています。これらの人々は、一旦はキリスト教に加わったのですが、後になって再び律法主義を生みだした可能性もあります。それにしても当時は伝道の禁止命令が出されていて、また祭司たちは保守的だったことを考えると、信者が増えたということは神の働きとしか考えられません。わたしたちはどんな形で神の働きを経験しているでしょうか。皆で話してみましょう。

次に8節以下では、ステファノ殉教の出来事が書いてあります。7人の責任者として選ばれたステファノは素晴らしい働きをしていました。奇跡も行ったと考えられます。しかし、良い働きには必ず反対勢力も現れてきます。9節にあるように、外国から来た者たちが、ステファノの働きに異論をとなえました。「リベルテン、すなわち解放された者の会堂は、ローマ系の会堂であろう。」[12] 紀元前61年に、ポンペイウス将軍に率いられるローマ軍に負け戦争捕虜になったユダヤ人が、後に解放されるとリベルテンと呼ばれたものです。彼らは解放されてエルサレムに戻ってからも自分たちを「解放された者」と呼んで、自分たちの会堂をもっていたことが知られています。彼らが議論したのは、おそらく教義の事に関する問題でしょう。そこに記載されているキリキア州というのはパウロの出身地です。「一つの宗教的論争が起こったが、パウロも、聴衆としてそこに居あわせたと考えても差支えないであろう。」[13] ところが、10節にあるように、ステファノは霊に導かれた知識で議論したので、反対者たちは議論に負けてしまいました。ただ、人間の心理は論理によって満足するわけではありません。特に、ステファノは霊によって語ったので、人間の論理で議論した者たちは議論に負けても完全に納得したわけではなかったでしょう。その怨みが更なる誹謗中傷へと発展していきました。彼らの告発によれば、ステファノは議論の中でモーセと神を冒涜したというのです。神はさておいて、モーセに関しては旧約の律法の代表者のような人物ですから、ステファノがイエス・キリストの福音を主張するさいに、その表現が反律法的であり、聞く人によってはモーセの教えを否定しているように聞こえたかもしれません。このことが「急速にキリスト教徒とユダヤ教との分裂を越えがたいものにしてしまった」[14]、のです。反対者たちは、モーセを冒涜したということで彼を批判しました。その方法も巧みであって、11節にあるように、自分たちが告発したのではなく、無知な人々を扇動し、権力者を懐柔して彼を逮捕させたのです。これは、せんじ詰めれば福音と律法の衝突、天の力と地の力の衝突としても考えられます。

さらに、13節以下にあるように、反対者は偽証人までたてて自分たちの主張が正しいと強調しました。そして、その告訴内容も、神殿の冒涜と律法の軽視でした。神殿は神への和解の犠牲をささげる場所ですが、その和解の方法とイエス・キリストの十字架における和解の方法との関連が彼らには理解できなかったのです。ですから彼らの告訴は、必ずしも完全な虚構ではありませんでした。14節の告発内容を見ますと、それはイエス様が教えていたことを歪曲し、拡大解釈した言葉であることがわかります。それは、イエス様が十字架につけられた理由でもありました。イエス様を迫害した者が、また同じ理由でステファノを迫害してきたのです。「ステパノの主張の本質的なことを故意に無視して、本質的でないことを、あたかも彼の主張の本質的なことでもあるかのように言って、訴えたのです。」[15] そこまで考えると、使徒たちの伝道は順調だったということであるが、神殿の重要性と、モーセの律法の有効性についての、イエス様の教えは十分には伝わってはおらず、半ばユダヤ教的なかたちで伝道が進展したのかもしれません。そこで、聖霊に満たされたステファノがイエス様と同じように、神殿とモーセの律法に関する新しい解釈を伝えたものですから、大騒動になったのでしょう。「ステファノは、論理的にみると、キリストの働きが神殿祭儀の廃止を含んでいたことを知っていた。」[16] であるとすると、確かに、他の使徒たちは相変わらず神殿に頼っていたのに、ステファノは革命的な神殿廃止論者でもあったのです。イエス・キリストこそ、神と民を結ぶ真の神殿だからです。そして、最高法院でのステファノの態度は立派なものでした。目撃者の証言では、彼の顔が天使のように輝いていたそうです。無実の罪で訴えられても、そこには憎しみや怒りは見えなかったのです。おそらく、それを見たパウロもまた同じ姿に変えられていったのでしょう。彼の心は、自分の境遇や悪意を持った人々に向けられておらず、救い主の十字架に従う思いがあったからでしょう。悪魔の攻撃に対する、最大の反撃は神を仰ぐことであり、神よりの平安に生きることです。人間の理屈で反撃するならばわたしたちも憎しみで包まれ、悪魔の配下に置かれてしまいます。ステファノは、復活されたイエス・キリストの姿に変えられていった者の最初の例ではないでしょうか。一粒の麦が落ちて死に、多くの命となって実を結んでいく預言の成就でもあります。「かれの死は無駄にはなりませんでした。なぜなら、パウロが信仰にはいったからです。」[17] 現代のわたしたちも、この命の種を受け継ぎ、平和の実を結ぶように導かれています。

[1] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、219頁

[2] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、128頁

[3]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、80頁

[4] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、126頁

[5] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、89頁

[6]  前掲、蓮見和男「使徒行伝」、90頁

[7]  前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980、228頁

[8] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、126頁

[9] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、636頁

[10] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、94頁

[11] 前掲、矢内原忠雄、「聖書講義1」、638頁

[12] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、85頁

[13] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、86頁

[14] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、87頁

[15] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、238頁

[16] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、135頁

[17] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、94頁

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