先日、比叡山に登ってきました。登ったと言っても、比叡山口からケーブルカーとロープウェイを乗り継ぎ、境内まではシャトルバスで行っただけです。学生の頃に、家出して京都に一年間ほど住んでいましたが、その頃の自分は唯物論者であって、宗教にはまったく関心はありませんでした。比叡山も歴史的観光地ではありましたが、頂上までの乗り物の料金が高かったので一度も登ったことはありませんでした。しかし、今回は違いました。有名なお坊さんたちが、千日回峰行などで修業を積んだこの山に、登って見たいと思ったのです。標高は800メートル以上ありますので、東京の高尾山よりは200メートルくらい高く、ケーブルカーも急斜面のように感じられました。親鸞なども、この山を市内の八角堂から毎日上ったというのですから、その体力はすさまじいものです。そして、今も実施されている千日回峰行は、単に比叡山に昇るだけではなく、山上にある峰をめぐって270か所以上ある礼拝所にお参りします。千日間で歩く距離は地球一周分に匹敵する4万キロです。概算すると、一日平均40キロの山道です。それも、冬期は小道も雪で凍結しているといわれます。700日を越えると、9日間に及ぶ断食、断水、不眠、不臥の荒行が待っています。わたしも15日間くらい断食したことはありますが、断水は断食以上に生命の危険を感じさせるものらしいです。普通は、断水の限界は一週間だと言われます。これらの厳しい修行を達成した者は「大行満」と呼ばれ、ひとつの悟りの境地に達した者とみなされるのです。これを聞くと、平凡なわたしたちは、「チョースゴイ!」と感嘆するしかありません。オリンピックを例えるならば、宗教オリンピックの金メダルです。ただ、ここで、少し冷静になって、宗教学的観点からこの修行を考えてみましょう。キリスト教では、讃美歌の一つに「弱き者よ、われにすべて、まかせよやと、主はのたもう、主によりて、あがなわるわが身の幸は、みな主にあり」(讃美歌514番)というものがあります。これは、19世紀の作詞家エルヴィナ・ホールの作ですが、彼女は幼い子供を亡くしたりしたつらい経験をもっています。その中で、弱さをそのまま受け止めて下さる救い主の信仰が助けになったのでしょう。悲しみだけでなく、その悲しみから立ち直らせていただいた喜びを、「わが身の幸」と書いています。一方で、仏教の修行は、人間の不屈の精神を賞賛しており、それは人間を賞賛する光ではあります。しかし同時に、宗教学的な見地では、強い者のみが救われるという、弱肉強食のような影があることは否めません。オリンピックの優勝者が微笑み、銀メダルに終わった選手が悔し涙をうかべるような闇が、そこにあるのではないでしょうか。弱い者が救われる。これが宗教の原点だとわたしは考えます。強い者は、もはや救われたいという願いは持っていないのです。人間の罪というものは、犯罪や悪行である前に、自分の弱さを認めない点にあるのではないでしょうか。若い時代のルターも、当時のローマ・カトリック教会の教えに従って、様々な苦行を行いました。そして、そのような「人間の業」によって救われるという幻想を持っていたのです。しかし、苦行の後に分かったのは、人間の業とは、塵に等しいという事でした。ローマ時代の苦行も、現代の苦行も、聖書の教えに照らしてみるならば、塵であり闇に過ぎません。人を救う光は、人の中から造られるものではなく、天から与えられるものだからです。この光は、無条件でどんな人にも与えられるものですが、自分が強いと思っている人は、この光を求めようとしません。闇に支配されているからです。