印西インターネット教会

愛の学校

殺処分と決まっていた柴犬の愛ちゃんが警察犬の訓練を受けられるまでになった、というテレビのドキュメンタリーを見たことがあった。それを実現したのは、岡山県の動物愛護NPO「しあわせの種たち」の濱田一江理事長や訓練士赤木美穂さんたちだった。愛ちゃんは、人を怖がり噛みつく危険な犬だった。だから、愛の反対は憎しみではなく恐れだと思う。動物でも人間でも、恐れから解放し周囲との関係を回復させるには自由にさせることが大切だと分かった。神が人に自由を与えているのも、同じ事かもしれない。我が家のチワワ犬のハッピーちゃんも噛みつき犬だった。周囲をみれば、愛を知らない者同士が、噛みつき合っているこの社会がある。

ある時に、畑で仕事の合間に祈っていると、「愛に生きることしかない」とお告げがあった。愛は犠牲を伴うことであり、楽ではない。しかし、生涯学び続けるのが愛だろう。三島由紀夫が「仮面の告白」を執筆したのは、は自分を見つめ、自分をさらした結果だった。同じく、無条件の愛を知った川端康成も「少年」という作品で自分を告白した。しかし、二人とも自殺してしまった。性を越えた純愛を求めた結果だった。その点に関係する、昔の映画に、「愛の狩人」という題のものがあった。これは異性愛を扱っており、そして外国の映画であるが、国籍は違っても、やはり愛のない者が愛を求めてロマンに生きる姿を描いていた。ある意味では人間であること自体が、「愛の狩人」なのだろう。

ある牧師(江口先生)が自分の青年時代を回顧して、九州から出てきた野良犬のような自分を、あの先生(坪池先生)は、たなごころで愛してくれたと書いていた。犬の愛ちゃんだけでなく、人間も噛みつき犬になることもある。それを癒すのは、掌心であり、それは、古来からの美しい日本語で、「柔らかく、優しく、そして宝のように掌につつむ」ことらしい。それは手のひらの中での事なのだ。だから、その反意語は「手のひらを返す」になるというのも納得できる。

「スターリングラード」という映画があった。そのドラマのなかで農夫だった男が優秀な狙撃手になり、共産党の青年将校を助けた。青年将校は一般兵士の士気を高めるために狙撃手の功績をたたえ、彼の功績を公報に掲載していた。当時、青年将校はある女性兵士を愛していた。ところが、その女性兵士が狙撃手と知り合いになり恋仲になってしまった。それを目撃してしまった青年将校の態度は、豹変した。狙撃手の態度を公に批判するようになった。ところが、色々と試練があって、最後に青年将校は自分の卑屈な態度を反省して「たとえ世界が共産主義になっても、人間の心の中にある不平等感は消えない」、と言った。つまり、愛を持つ者と失った者との間に、社会体制がどう変化しても、葛藤が生じていくという見方を示したわけである。自分もそう思う。やはり、愛というものが人間の所有欲と結ばれると、たとえどんな社会体制になっても、自分の愛する者が他の者の腕に抱かれるという事は許せないだろう。つまり、大切な所有が失われるわけだ。

愛ですらそのようになるが、わたしたちの生活基盤である資本主義社会はまさに所有の構造を以って、人間に満足を与えようとする。しかし、それは、恋愛の場合に見られるように、単なるストレスの原因を作っているだけではないだろうか。愛の根源は、聖書によれば、所有することではなく、失う事である。純粋に与えることである。相手に干渉しない事である。これにはストレスが伴わない。純粋な愛は神に通じるものがある。そんな愛を持てたら幸せであるし、世界も平和になることだろう。世界の平和とかいうテーマがあるが、「スターリングラード」に出て来るように、どんなに体制が変わっても、与える愛を知らない限り、争いや嫉妬、憎しみは絶えないだろう。

「愛は寛容であり忍耐であり情け深い」とは、第一コリント書に書かれている言葉であるが、そのようなことを実行するのは難しい。以前に聞いた話だが、あるネイティブ・アメリカンの村に少年がいたそうだ。その少年は村の古老から、村を救う預言者のような人が現れると聞いた。当時、その村は白人との絶え間ない争いで困窮していた。古老の言うには、その預言者のような人の横顔は村の近くの岩山の絶壁の形に似ているということだった。それから長い年月が過ぎた。村人が白人に殺され、虐待される事件があるたびに少年は岩山の顔を見上げて、預言者の到来を待ち望んだ。やがて、少年は成長し、村のリーダーとして村人を助けた。やっと村に平和か来た時には、少年は既に老人になっていた。あれほど助けを待っていた、岩山の岩肌に描かれたような預言者は現れなかった。しかし、あるとき彼が道端に座って岩山を見つめていると、近所の少年がやってきて言った。おじいさんの横顔はあの岩山の顔にそっくりだね。つまり、見つめていったことによってそのものに作り変えられていったのだろう。同じことが聖書にも言えるかもしれない。実現不可能に見える愛の教えだが、それを長い間、見つめていくうちに自分も愛の人に変えられることもあるかもしれない。愛の学校の一学期は、とても長い。

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