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全信徒祭司性に関する講演会内容

菊川教会講演「ルターの全信徒祭司性」

今回のテーマは、全信徒祭司性についてです。この言葉は、今から500年くらい前のドイツで、ルターの宗教改革の際に生まれた言葉です。ただそこには、二つの似たようで違う表現が存在します。

allgemeines Priestertum(万人祭司)  Priestertum aller Glaubigen(全信徒祭司)との違い。この意味は、最初の方が(一般の、共通の、公共の、普通の人々の)(牧師階級、僧門)そして二番目が、(、すべての信仰者の牧師階級牧師階級) 意味上では、誰もがというと無神論者も入ってしまうので、全信徒祭司性が合理的だと思いますが、両方の用語が同じような意味で使用されています。今回は万人祭司性ではなく全信徒祭司性を用いることにしました。「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う」でルターがこの考えを明らかにしました。

これは実は宗教改革の三大テーマの一つだったのです。ルーテル教会では、信仰のみ、聖書のみ、恵みのみとよく言われます。10月末の宗教改革記念礼拝ではそのことを覚えます。ただ、そのルターの改革思想を詳しく調べると、信仰義認、聖書の権威、万人祭司性(恵みのみ)となります。「ルターは、信仰、聖書、教会について、中世のキリスト教に対して問いを発した。すなわち脱構築したのである。」(江口再起著、「ルターの脱構築」)、2018年、リトン社)ここでの脱構築とはデリダという人がとなえた哲学用語で、二律背反(二項対立)の構造を破壊して新たに構築を試みる思考方法のことです。キリスト者の平等というルターの理想は、階級制度の廃止、特権階級の廃止、教会の権威からの自由、信仰者は強制されない奉仕者、僕、執事であるということでした。しかし、権威からの自由というのは聞こえがいいですが、問題もあります。

いったい、一般信徒が、教育を受けた牧師のように説教や牧会することができるのでしょうか。万人祭司は可能なのでしょうか。むしろ不可能に近いとおもわれます。テントメーキング牧師も、教会財政の圧迫から提唱されて、牧師が一般の職に就きながら、牧会するというアイディアです。新約聖書で使徒パウロがテント職人の仕事をしながら、伝道していたことから、テントメーキング・パスターという言葉が生まれました。日本の山村の小さなお寺でも、檀家数がすくなくて、お坊さんが学校の先生や、他の仕事をしながら、寺を維持している場合もあります。しかし、その負担は大きいと思います。肉体的、精神的、体力的な負担です。一般の仕事をするなら、パウロのように、あるいは独身の神父さんのようにでしたら、断食しながらも生きていけます。でも、家族をっさえるには、週に6日働いて日曜日も教会の仕事があるわけです。お寺では、毎週法要があるわけではないので、家の子供たちの行事が日曜日にあっても参加できます。牧師は違います。一年間、全く休みなしにテントメーキングすることは可能なのでしょうか。モーセの十戒にある、安息日は休むことができません。

何か、別の方法が考えられるのでしょうか。それは、今までの教会構造そのもの、これを脱構築して改革しなければなりません。宗教改革で、ある面は古い教会制度は改革されましたが、ルーテル教会には教職制度の形で残っています。いまから100年以上前に共産主義をとなえたカール・マルクスは、「ユダヤ人問題によせて」という著作の中で、「福音の伝道そのもの、キリスト者の説教師(牧師)の職が商品の一つになっている」と述べています。わたしの牧会したある教会で、ある若い信徒が「教会礼拝は爽快感を与える清涼飲料水に似ている」と語ったのに似ています。その時は不謹慎なことをいう人だと思いましたが、ユダヤ人であったマルクスはユダヤ教やキリスト教の問題点を把握していたのです。福音ルーテル教会というが、この福音は貨幣経済社会の中で商品としての福音になっている。「牧師は語ってなんぼだからね」と言った人もいました。そうすると、皆さんのような信徒はお金を出して商品を買いに来る客という定義になります。さっきの話を例にすれば、牧師は清涼飲料水を売る人、そして信徒はその清涼飲料水を買う人たちです。これは、教会外の世界では、お笑い芸人たちがやっていることです。あのサンマさんでも、舞台裏を良く知っている人は、自分の笑いが十分に受けていなかった(清涼飲料水になっていなかった)といつも反省している人だそうです。ある面では、日本の牧師の話し方は、福音の販売の仕方は、お笑い芸人以下でしょう。その点、銀座教会の渡辺善太先生は、落語なども勉強していて、説教が上手だったそうです。

しかし、そうした、説教や儀式中心の教会構造を脱構築するには、福音の切り売りをやめて、初代教会のように、コミュニティーとするしかありません。今朝の説教にもでてきた神の家族をつくることです。これは、商品にはなりません。そもそも、祭司性は祭儀の発展から必然的に発生してくる。教会では、聖餐式、洗礼式、結婚や葬儀、そして礼拝説教によって祭司の特殊性が生まれます。

昔から、餅は餅屋、桶は桶屋にと言います。難しいことは専門職にまかせなさいという事です。牧師職という専門職を、全信徒祭司性で分担できるものでしょうか。日本福音ルーテル教会ではやってみました。成功はしていないようです。それは、信徒説教者育成プログラムです。

信徒説教者実施要綱

全信徒祭司性を根拠とする

「信徒説教者として召され、認定された者は、職制としてではなく、あくまで信徒として、中略、み言葉を取り次ぐ霊的奉仕をおこなう。」と書いてあります。ここに出て来る職制とは、全信徒祭司性を考える時に、古い教会構造の脱構築には重要な言葉です。おそらく、信徒説教者の失敗は、「職制としてではなく」としたことにあるのではないでしょうか。この点はルーテル教会の定義があいまいです。

なぜならば、一般の牧師のことについて書いてある、教会規則集にも職制の内容が明らかにされていないからです。日本福音ルーテル教会規則集の牧師定義のあいまいさ。

第7編、第1章、教師の区分、となっていて教師の定義には触れていない

題は教師だが、本文では、牧師や牧師補の区分になっている、牧師の方も、職務によって、牧師、教務教師、派遣宣教師、出向教師に区分されている

何であるかの記載がなく、実務的な区分だけが問題とされている、職制という言葉は、信徒説教者には書かれているが、規則には載っていない

 

職制の事を他教派の人たちを熱心に話し合ったのは神学校の故石居正巳先生でした。

神学校の石居正巳先生はエキュメニカル活動に熱心だった。その働きがまとめられた本が、「洗礼・聖餐・職務」(日本キリスト教協議会信仰と職制委員会編訳、1985年、日本基督教団出版局)である。

この本の作成は画期的なものであり、日本福音ルーテル教会、カトリック教会、日本基督教団、ハリストス正教会、などの代表者が執筆している。

「この共同体のもつしるしのなかでは、使徒性が、職制を理解するための中心的な位置をしめる。 中略 キリストが選び、派遣した使徒たちは、御霊によって創造された共同体の基礎である。 中略 このように教会の使徒性は、キリストの派遣にもとずいており、使徒たちの充実した証しと奉仕にしっかり結びつけられている。キリスト者の共同体は、この証しと奉仕に忠実に従うようにつねに努力しなければならないが、しかしその使徒性は、まず第一には、聖霊の働きによってそこにキリストが現臨しつづけ給うことによって支えられている。」(日本キリスト教協議会信仰と職制委員会編訳、「洗礼・聖餐・職務」1985年、日本基督教団出版局、151頁)

実は職制の原点は新約聖書のパウロの手紙の中に書かれています。そのいくつかをあげてみましょう。

「ある人をを使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。」(エフェソ信徒への手紙4:11)これは職務の分類です。

「キリスト・イエスによって与えられる命の約束を宣べ伝えるために、神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、愛する子テモテへ。」(第二テモテ1:1-2)牧師という職制は、み言葉の宣教という職務だと分かります。

「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。皆が使徒であろうか。皆が預言者であろうか。皆が教師であろうか、皆が奇跡を行う者であろうか。」(第一コリント12:27-29)この後でパウロは、愛こそが最高の道であると教えている。教会における役割の分担は悪い事ではない。体の構造と似ている。み言葉の宣教が頭であり、すべての奉仕は愛によって結ばれている。

このように職制の原点は新約聖書にあります。ところがルーテル教会の規則集では、信徒説教者は認定だけであって職制ではないとしながら、牧師に関しては職制であるにもかかわらず、職制という言葉を避けて、教務教師、派遣宣教師などの仕事の分類しか出ていないのです。毎年の総会では、お金の算段の話ばかりで、株主総会のようだと思ったことがありましたが、総会ではこういう古い構造の脱構築に係わる問題を協議すべきです。

それはそうと、カトリック教会の時代から受け継いできている職制、祭司の役割、これらを脱構築するには愛を中心にすることを聖書から学ばなくてはなりません。

また、ルター自身から学ばなくてはなりません。ルターは聖書から学んだからです。ある人はこう書いています。

ルターの教えとルター派は違う「ルターのこの言葉を、その後のルター派は、正統化、制度化してしまいました。言ってしまえば、『家の宗教』にしてしまった。」(佐藤優著「宗教改革者」、2020年、角川新書)

そこで、正統化や制度化をいったん中止して、愛の奉仕と聖書の朗読と、証しの分かち合いならできるわけです。浄土真宗の衰退期に、それを再度組織化して日本最大の仏教集団にした蓮如の伝道はグループワークだった。それも、信徒への細かい愛の気配りがあった。寒い季節に遠くからお参りに来た信徒には、お燗をつけて体を温めてあげなさいという事は、悩み事をグループで聞いて支えてあげなさいなどとしたのです。お坊さん中心ではないのです。

初代教会も同じ事をしていたのです。けっして牧師に依存していたのではありません。

「使徒とその協力者たちは教会を建設していった。彼らはエルサレムやアンティオキアといった母教会から派遣された。いわば『巡回指導者』とも呼ぶべき人々だった。彼らはそれぞれの教会に、ユダヤ教と同じように長老団をつくっていった。長老団のメンバーは『プレスビューテロス』あるいは『エピスコポス』と呼ばれた。当時の文書は好んで彼らを、羊の群れの世話をする羊飼いにたとえている。これらの指導者たちの役割は、教会がつつがなく運営されるように監督することだった。使徒たちと連絡をとり、彼らから受け取った手紙に注釈を加えたりもした。礼拝ではその健全な信仰に心を砕き、集会での女性のおしゃべりや、派手な化粧、宝石や金モールなどの装飾品も禁止した。また、彼らは共同体の現実的な問題にも気を配らなければならなかった。」(ピエール・マリー・ボード著、「キリスト教の誕生」、1997年、創元社、72頁)

それは、牧師だけでなく、長老や協力者が教会をつくっていったことです。皆が神の祭司なのです。これは旧約聖書にも書いてあります。

旧約聖書、出エジプト19:6「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」ヨエル3:1「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」ここにある霊を受けていないなら、奉仕は重荷になります。

新約聖書第一ペトロ2:5「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストをとおして捧げなさい」祭司の役割を誤ってはいけない、それは犠牲の捧げもの、をささげることです。イエス・キリストの役割の中心は、教えではないのです。説教でもないです。生贄の奉献である。この点では現代のキリスト教は抽象的な教訓に没落している。あるいは、資本主義社会の中で福音という商品の販売を牧師に依存しているのです。そして、牧師の販売の仕方が悪いと、教会内で不満がたまります。現代でもそういう問題がりますが、実はルターの時代にも、牧師に依存している教会には、牧師が自分たちの願い通りの説教をしてくれないという問題がありました。

しかし、ルターは考えました。

特権階級ではなくても、神への捧げものはできる。神に捧げるという事は、神の愛に従って分け与えることだからです。あの友人レオン君のお母さんも与える人でした。「私もまた、私の隣人のために、ひとりのキリストになる。」(キリスト者の自由、後期ラテン語版)このように、宗教改革の先を見ていたルターは言いました。わたしも、一人のキリストになる。

ですから。

ローマの神権とは対照的に,ルターは1520年の宗教改革の主なパンフレットでバプテスマを受けたすべての人の神権を定式化しました。「すべてのキリスト教徒は真に霊的であり、その中で、単独での任期に違いはありません。…したがって、わたしたちは皆,バプテスマによって祭司を聖別しています。

–マーティン・ルター: キリスト教貴族へ. (1520)[

 

教会論(全信徒祭司性→万人祭司性)への脱構築

エキュメニズム、全世界の意味、単なる超教派ではない「この全世界には、わが教会・わが教派の人ばかりではなく、他教派の人も、いや他宗教の人も、いや無宗教の人も、それこそ全人類が住んでいる。そして神はそういう世界を創造し保持し救済するのである。それが神のめぐみなのである。」(江口再起著、「ルターの脱構築」)、2018年、リトン社、179頁)

愛と共に歩むことが人類の課題である。愛のない社会の疎外が生む大量殺人が起こっている。伝道の逼迫性がある現代です。

 

最後ですが、初代教会についてこう書かれています。

「教団が各地に根を下ろしたあとは、キリスト教に帰依した親戚や友人との接触から、新たな信者が生まれるようになった。 中略 人々を引きつけたのは、熱心な宣教活動よりも、むしろ夫婦愛、友愛などといったキリスト教的倫理観のほうだった。」(ピエール・マリー・ボード著、「キリスト教の誕生」、1997年、創元社、88頁)

数名の宣教師しか活動しなかったロシア正教の宣教師ニコライは、明治10年にカトリックの宣教師45名、プロテスタント諸派99名と同じくらいの伝送成果を上げています。信徒の働きを養成したからです。その彼の所に、慶應義塾で雇われたユニテリアンの宣教師が、御茶ノ水の大聖堂を見物に着て、「日本人には信仰する能力がないのです。日本人がキリスト教の学校へ来るのは、もっぱら教育の為です」と言ったとき、ニコライはこう答えました。「われわれの教会は日本人たちによって築かれたのです。日本にわれわれ宣教師は二人以上いたことはない。われわれのところでは聖職者と伝道者はすべて日本人です。」(中村健之介著、「宣教師ニコライと明治日本」1996年、岩波書店、91頁)

ニコライや、日本の蓮如は古い宗教組織を脱構築しました。蓮如は日本最大の仏教教団を作りました。現代のわれわれの教会でも脱構築すれば、たった二人の牧師でもニコライと同じように3万人の教会形成が可能です。それが(全信徒祭司性→万人祭司性)への脱構築であり、人類の将来に希望を与えるものとなるでしょう。

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