人質たてこもり事件と依存性の問題
埼玉のふじみ野市で人質立てこもり事件がおこった。犯人の母親を在宅で治療していた医師は散弾銃で撃たれて死亡した。犯人の自宅を訪問したその他の医療関係者も重傷を負っている。犯人の渡辺宏という人物は、母親の死に関して医療関係者を謝らせたかったと、警察の関係者には言っていたそうである。医者の側からは、母親を入院させるように勧めていたが、犯人は断わってたそうだ。そして、医療器具も不備な自宅で死亡したら、怒って担当していた医師を射殺するという身勝手な行動にでている。おそらく彼は、母親の年金を頼りに暮らしていたのだろうという見方をする人が多い。そんな母親が死んでしまったことは、彼にとって大きな悲しみだったことだろう。こうした、悲しみは、彼だけでなく多くの人が経験することだ。しかし、彼の場合には、悲しみが、怒りに変わっている。そして、こともあろうに、看護していた医師に怒って、殺害してしまった。ここまで極端な反応をする人はそれほど多くはないだろう。しかし、それにしても悲しみが怒りに変わるという事は、小さな子供を見てもわかる。腹がすいたとか、眠いとかいう生理的な不調による悲しみが、怒りに変わることがある。その根本原因は依存性ではないかと思う。昨年亡くなった中根千枝氏も日本の社会構造を研究し、その行動原理の中に依存性が強く存在することを指摘した。渡辺宏容疑者もその一例に過ぎない。彼も悪いには違いないが、こういう依存的人物を日本の社会構造が生み出していることを見逃してはいけないと思う。この点を聖書で見ると、心に浮かぶのはダビデ王が息子のアブサロムの反乱に遭遇した時の言葉だ。ダビデが親子関係において相互依存的な人物だったら、おそらく、この事態を悲しむとともに、「自分が世話をしてきたわが子が、何故、父親に反旗をひるがえすのだ」と言って怒っただろう。しかし、ダビデはそうしなかった。また、以前の部下までがダビデを罵った時にも怒らなかった。ダビデは言った、「勝手にさせておけ。主の御命令で呪っているのだ。主がわたしの苦しみを御覧になり、今日の彼の呪いに代えて幸いを返してくださるかもしれない。」(サムエル記下16章11節以下)ダビデは他者にたいして、依存関係から来る見返りや忖度を要求せず、相手の自由を認めた。愛する自由、憎む自由、和睦する自由、無視する自由、喜ぶ自由、悲しむ自由、等々。それは、人間が依存的ではなく、真に自立した時に可能なことなのだ。これと共通する思想は、旧約聖書の「コヘレトの言葉」に見られる。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆くとき、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざける時、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時。」(コヘレトの言葉3章1節以下)その昔、罪を犯してエデンの園を追放された人類の祖先は、自立するどころか、依存的な人間になってしまった。現代という時代においても問題の本質は変わらない。人類の救いとは、伝統的な神学からいえば、罪からの贖いという事だが、その内実は、真に自由で依存しない人間になる事ではないだろうか。多くの宗教は、信者に教祖への依存を要求しているが、聖書は違う。神が望むのは、人類が愛に根差した自由な存在になる事だと教えている。だから、イエス・キリストは、弟子たちの裏切りにあっても悲しまなかったし、怒らなかった。イエス・キリストこそ、神が望んでいる人類のプロトタイプそのものだと思う。「だれかがなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ福音書5章39節)イエス・キリストには、依存性がみられない。