警察官の警棒で高校生失明
沖縄の高校生が、警察官の警棒によって失明した。警察官の話では、バイクで住宅街を走行中の高校生に職務質問をしようとして警棒を持った手を広げて制止しようとしたが、高校生が止まらなかったので警棒に強くぶつかったと言っているらしい。一方、高校生の側は、急に現れた警察官に棒のようなもので殴られたと言っている。これはまるで、黒澤明監督の映画、羅生門のようではないか。証言がいろいろあって、何が真実だか解明するのが難しい。ただ、推測は可能である。警察官が証言したように、警棒を持った手を広げて制止しようとしたなら、バイクを運転していた高校生がそれをよけられないはずはない。自分もバイクを運転するからそれはわかる。例えば倒木の枝が道路まで突き出していても、みすみす直進して目にあてるような運転者はいない。バイクの運転には細心の注意が必要なので、もし警察官が警棒のような大きなものを手に持っていたら避けることができたはずである。しかし、警察官の横を通り過ぎようとして、急に警棒で殴られたら避けることはできない。これに似たケースを自分も体験したことがある。場所は東京の赤坂見附の交差点だった。学生運動のデモ隊と機動隊が衝突した。自分は何も危険なものは所有していなかったが、突然襲ってきた機動隊員に顔面を重い金属の盾の底辺で殴られた。おそらく、沖縄の高校生の場合も似ているが、警察内部では、相手を制するためには顔面をねらえと指示されているのではないだろうか。盾の前面は平面なので、それで撃たれても打撲傷である。しかし、盾の底辺はいわば細い金属の棒であって、これで殴るのは危険である。自分は顔面をこれで殴打されて、口から血が出た。手を当ててみると、前歯が折れて出血していた。この前歯の治療にはずいぶん高い費用がかかったのを覚えている。最初は保険のきく銀歯でやってもらったが、奥歯ならまだしも、前歯なので、007に出て来る狂暴な悪人のような風貌になってしまって自分でも嫌だった。だいぶ後になって、白いさし歯に変えてもらったが10万近くの金がかかった。それにしても、あの金属の盾の顔面への殴打が目にあたっていたら、眼球は確実につぶれていたに違いない。こちらが暴力行為に出てはいないのに警察官が暴力で権力行使するのには疑問が多い。聖書にも、イエス様を逮捕せるために役人が来た時に、ペトロは刀を抜いてその一人の耳を切り落としたと書かれている。しかし、イエス様は言った、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ福音書26章52節)イエス様のいう通りだと思う。暴力のチャンピョンのようだったヒットラーも滅びた。中国戦線で限りない暴力を行使した大日本帝国軍も滅びた。そして、現在のアメリカはキリスト教の建国精神を無視して、暴力でアルカイダを制圧しようとしている。アメリカは、ワールドトレードセンターの爆破という惨劇から一つも学んでいない。これを続けたら、アメリカの大都市が小型核爆弾のテロにあうおそれがあるだろう。イエス・キリストは暴力の連鎖を知っていたし、それは人間の罪の結果だと見抜いていた。罪の問題が解決しなければ、暴力問題の解決は難しい。