閑話休題

人間が非力だから信じる宗教の問題点

確かに人生には色々な困難があります。身近なところでは、受験競争でしょうか。学力がないのにレベルが高い大学を受験した学生が、インターネットを使って問題を漏洩させたとして起訴されました。ほかには、合格祈願のお祈りをする学生もいますが、これは犯罪にはなりません。昔から、家内安全商売繁盛のための祈願は多く見られます。交通安全の祈願もありますし、さらには苦しまなくてポックリ死ねるための祈願もあります。宗教が、人間の非力感にたいして安心感を与える役割を追っています。しかし、こうした形態の宗教は、技術の発展と共に消えて行くのではないでしょうか。人間が非力でなければ必要のない事だからです。宗教的忖度ともいえます。ちなみに、宗教的にも政治的にも忖度することがほとんどない強い人間観を持った西洋社会では、神頼みはほとんどみられません。仏教でも、基本は、唯我独尊であって、他の力に依存して偶像化することを禁じています。仏教の古い記録にこんなことが書いてあります。あるくらいの高い武将が、寒い冬の日に暖を取るためにお寺によりました。しかし、貧しい田舎のお寺には燃やす薪もありませんでした。しかし、お坊さんは、木の仏像を斧で割って薪として燃やし、部屋を暖めてくれたそうです。昔は偉い坊さんがいたものだと思います。なぜなら、宗教の根本は、人間をして他のものに依存させたり非力化させるのではなく、独立させるものだからです。聖書を読むと、やはり、人間をほかの被造物に依存させる偶像礼拝は禁じられています。ですから、非力な者が非力でなくなれば問題は解決することです。聖書が人間に与えるメッセージは、愛と勇気です。典型的なものは、モーセの後を継いで指導者となったヨシュアと神からの啓示について書かれています。「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても、あなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記1章9節)別の問題ですが、ここの「雄々しくあれ」という訳語は性差別的なものです。修正した方がよいと思います。何故なら、原語のヘブライ語では、ハザック ヴェ エメツと書かれており、その意味は、強くかつ勇気を持ちなさいという事だからです。それはそうと、どんな境遇にも非力ではなかった、聖書の中の登場人物たちの信仰は、神が与えたものです。これを、啓示宗教と言います。人間が懸命に信じているのではないのです。それは、どんなに立派でも人間信仰であり、人間が造った偶像の一種です。不可能に打ち勝つ勇気と強さを、神が与えて下さるという事を聖書は示しています。この場合、人間は非力でありながら同時にすべてを超越しているという弁証法的な状態が実現します。イエス・キリストの姿にそれは示されているとも言えるでしょう。この宗教は、技術がどれほど進歩しても、人類に愛と勇気を与え続けるでしょう。なぜなら、それは宇宙創造の根源との対話であるからです。

-閑話休題