閑話休題

奇跡についての神学的考察

ユーチューブを見ていたら、空海についての説明がでていました。説明しているのは、神道の神官の方でした。その方の話では、空海は仏教だけでなく、儒教や道教にも精通していて、彼の用いた用いた呪術は神道にも秘伝として伝わっているそうです。それに空海の実家である佐伯家は、もともとは神道系で医薬による治療などをなりわいとしていたようです。そして、空海はさまざまな奇跡を起こしたことでも知られています。その神官の方も、伝えらえた呪術の呪文をとなえれば奇跡が起こせるかのような口調でした。さて、聖書も奇跡とは無関係ではありません。しかし、神学的に考察すると、奇跡はどのように位置づけられるのでしょうか。神学校で組織神学を学んだ時にも、奇跡についてはあまり深く学んだことがないような気がします。この記事を読んでくださっている方も奇跡の意味を深く考える機会は多くはなかったと思います。果たして、空海の呪文を唱えれば奇跡は起こるのでしょうか。答えは、ノーです。それはそれとして、わたし自身が奇跡について悩んだのは、洗礼を受ける前でした。問題はイエス・キリストの復活でした。洗礼を受けるには、復活を信じていなければなりません。イエス様は、偉大な宗教家だったなどの見解では、信者になる事はできません。それは、個人的な意見をもっているに過ぎないからです。学生時代のわたしは唯物論者でした。無神論者と言ってもいいでしょう。そのわたしが、「神は愛である」と聖書に書かれている神の存在を信じた時に、奇跡の問題は解決しました。愛の存在であり、全知全能の神に不可能はないからです。それからすでに50年ほどたっていますが、牧師の仕事をしていて、重病の人を奇跡的に回復できたらなあと思ったことは何度もあります。しかし、奇跡は起こせるものではありません。あのユーチューブの神官の方も神学的には間違っていると思います。ところが、奇跡は起こるのです。もっと正確に言うならば、「奇跡は起こせないが、奇跡は起こる」のです。罪ある人間が、自分たちの願いを実現しようとして行うどのような技も、罪(神から分離した自己中心性)の上塗りにすぎません。他の記事にも書きましたが、正しい人生観は認命(定めを知る)ことです。旧約聖書の中の偉大な信仰者の中の一人であるモーセも、この点では誤りを犯しました。出エジプトの苦難の中で、水のない苦しみを訴える民衆に答えるため、モーセは岩を杖でたたいて水を出すという奇跡を起こしてしまったのです。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」(出エジプト記17章7節)モーセはこの過ちの結果、約束の地に入ることはできませんでした。これは、奇跡を起こして神の存在を試したからです。しかし、聖書のほかの箇所を見ると、奇跡が起こっても何の問題もなかった場合も見受けられます。それは、預言者エリヤのエピソードです。干ばつを預言したエリヤはしばらくカラスによって養われていました。その後、神は、エリヤにやもめによって養わせると告げました。このやもめは貧しく、それに干ばつによる飢饉もくわわって、食料といえば、一握りの小麦粉と少しの油だけでした。やもめは言いました、「わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです。」(列王記上17章12節)しかし、エリヤは神の宣託を伝え、それでパンを作るように願いました。その言葉に従ったとき、「御言葉のとおり、壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった。」(列王記上17章16節)そして、やもめはエリヤに言いました、「今わたしは分かりました、あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」(列王記上17章24節)これは、奇跡が起こった良い例だと思います。結論としていえるのは、「奇跡は起こせないが、奇跡は起こる」のです。これをイエス様の言葉に置き換えると、「人間には出来ないが、神には出来る」という事になります。神学的に見てとても健全な考え方であると思います。

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