今週の説教

苦しみのトンネルの中から脱け出せないと感じた時に読む説教

「トンネルの先に出口の光」    ヨハネ12:36b-50

ヨハネの福音書にはその冒頭から光について書いてあります。「光は暗闇の中に輝いている。」(ヨハネ1:3)この言葉には大きな慰めがありはしないでしょうか。イエス様の伝道の目的は「暗闇に住む民が大きな光を見る」ためだったと書かれています。わたしたちも闇を経験するときに光の大切さを痛感するものです。

わたしたちの周りにはさまざまな闇があります。3月20日はオウムのサリン事件から33年目です。オウムが闇だったのは当然ですが、あの頃、子女がオウムに入ったことで心配した家族が東京都に宗教法人の撤回を求めても黙認され、警察も危険が分かっていたのに事件が起きないと動かないという闇の体質がありました。世界に目をやっても、残虐なテロがあり、ウクライナ戦争にも象徴される闇が絶えません。わたしたちは、オウムの狂信的信者でもありませんし、プーチン大統領の仲間でもありません。しかし、彼らにみられる狂気の闇はわたしたちの中にもあるかもしれません。闇は身近にあります。それは、自分は常に正しいという自己絶対肯定です。

イエス様は、実際に人を殺すのも、あるいは腹を立てるのも同罪だと教えました。自分が正しいから怒るのです。だとすると、わたしたちは毎日罪を犯していることになります。また、自分が惨めだ、自分が情けないと思っている人はどうでしょうか。その人は謙虚なように見えます。ですが、自分は絶対にダメだという自分のかたくなな心を絶対化していること自体に闇があるとは気付きません。この自己中心性もやはり闇ではないでしょうか。

ですから、聖書は「光のあるうちに光の中を歩きなさい」(ヨハネ12:35)と告げ、あなたは、自分の判断を絶対化して、自分はこんなにひどい、あの人はあんなにひどい、という闇に沈んではいけないし、神の御心をもとめなさい、それが光だ、と教えるのです。ドイツの詩人ゲーテは「人に欺かれるのではなく、自分で己を欺くのである」と書いています。闇は自分たちの心の中にあるものなのだと教えているのだと思います。

イエス様は、光の子として、人々に神の国の福音を伝え、病を癒し、人々に希望を与えました。しかし、その活動のあとで、丁度、汽車がトンネルに入るように姿を隠され、光は見えなくなったと聖書に書いてあります。光が身近にある方が救いに近いと思いがちです。しかし、むしろ逆ではないでしょうか。光の中にいては、救いの光は見えません。闇の中に置かれた時に初めて光を発見できます。例えば九州の田舎には旧国鉄が廃線されトンネルだけが残っている場所が多くありました。そこを通ったことがあります。全く照明のないトンネル内は不気味なものです。でも、このさきに出口があると思って進んでいくと、遠くに一筋の光が見えたときは嬉しいものです。「光のあるうちに光の中を歩きなさい」という意味を実感できます。

実際のトンネルは進んでいけば良いのですが、心の闇はどうしたら出られるのでしょうか。怒り、憎しみ、悲しみ、絶望の闇はいつ終わるのでしょうか。聖書には、イエス様の宣教の働きがあっても、ほとんどの人々は、イエス様を救い主として信じることはなかったと書いています。たぶん、人の心にはメシアに関する間違ったイメージがあったからでしょう。信じるということの実態は、今まで考えていたことの確認、自己中心的な自己肯定でしかない場合が実に多いのです。

オウムだけでなく、多くの宗教の信仰観はこれです。「イワシの頭も信心から」戦争による大量殺害を肯定しているプーチン大統領も、この自己肯定宗教に影響され散ると考えてもいいでしょう。

救い主を見ることが光なのに、彼らが夢見たメシアとは、お医者さんのように病気を癒してくれる人、あるいは魔術師のように奇跡を行う人でした。イエス様の中に自分の願いや、願望、つまり自分自身を投影しただけだったのです。そういう信仰は、自分という砂の上に立っている建物ですから、試練で倒れやすいものです。

しかし、ここで倒れることは絶対に悪いと言えるでしょうか。そうでもないでしょう。これも神の定めで、一度は倒れなければいけないこともあります。「自分で己を欺いていた」と悟らなければいけないわけです。ある神学者は「わたしたちの古い心が御言葉によって、一度は叩きつけられなければならない」と言っています。古い構造、古い価値観、こういうものが一度は神によって粉々になって崩れ落ちるときに、光が見えてくるでしょう。

 

つまり、一度は粉々に粉砕されたほうがいいのです。

 

その次の聖書の部分に「神は彼らの目を見えなくし」というイザヤ書からの引用が書いてあります。これも神の働きです。神がそうされているのです。自分には見えない、自分は闇の中で苦しんでいると思っている人は、既に光の近くに来ているのではないでしょうか。光を見えるようにするために、神は闇を暗くしているのですから。

この世の闇の一例は、アウシュヴィッツの強制収容所でしょう。そこにダビデという名の12歳のユダヤ人少年が送られました。彼の両親は既に殺されていました。彼の乗った列車がアウシュヴィッツの強制収容所についた日はとても寒い冬の日でした。気温は零下20度でした。ユダヤ人たちは貨物列車にいれられて、そこで10日間放置されました。一度に1500人以上が凍死しました。暖房も食べ物もなく、まるで貨物のように放置されて、生きていたことのほうが奇跡と言えたでしょう。でも、ダビデは死にませんでした。収容所に移ってからも、絶望のなかで高圧電流の流れる鉄条網を掴んで自殺する人が毎日いたそうです。あまりにも苦しい闇の中で、生きていく光が見えなかったのです。しかし、本当に光がなかったのでしょうか。ある親子は、母親が一日にたった一枚しかない黒パンを食べないで取っておいて、娘の誕生日にそれにマーガリンを塗って、三段重ねのサンドイッチのようにして食べさせ、祝ったそうです。愛は暗闇の中でも光でした。

闇があるから輝く光もある。

囚人たちは零下20度の中でも靴はなく裸足で、冬用の服もありませんでした。冷えからくる腎臓病で死ぬ人も多く、シラミの媒介によるチフスで死んだ人も多かったわけです。ただ、人々は病気以上に、人間性否定の冷遇で精神的に苦しんだそうです。しかし、過酷な労働のあとでも、すぐには眠らずに互いに語学を教え合って励ました人々もいました。最悪の迫害は人間性の否定でしたから、逆に、励まし合って人間性を保つことが光でした。キリストの十字架は、人間性を否定され、犯罪者として処刑されたなかでさえ、イエス様が光を失わなかった尊い証しです。

聖書は犯罪者として処刑されたイエス様が光としてこの世に来たと教えています。そして有名なヨハネ福音書3:16の繰り返しである、「裁くためでなく、救うためにきた」と書かれています。裁きは闇です。受難とはまさに光です。

光のテーマは最初に述べたようにヨハネ福音書の独特なものですが、この光の失われた極限の時がイエス・キリストの十字架でした。北森嘉蔵という神学者がキリストの十字架の救いについて、「神の痛みの神学」という本を書きました。そのなかでこう言っています。福音は、普通には見えないし信じられない。なぜかというと、「神が神たることをやめたもうかのごとくに行動したからである。」つまり光なる神が、光であることを自己否定されたのです。「イエスを十字架にかけろ!」という自己肯定の怒号の中で、静かにイエス様はその闇を受け、闇に沈みました。神が神であることを自己否定して犯罪者として十字架につけられたのです。それは「暗闇に住む民が大きな光を見る」ためでした。神がしめされたアガペーの愛です。アガペーの愛とは神の自己犠牲的死、神の痛みの神学に示されています。そこに光があるのです。まだ我々の人生にも、困難があり、失意落胆が有り、肉体の限りない痛みがあるでしょう。しかし、闇が深ければ深いほど、光は輝くのです。

 

ですから、現在の苦しみは決して無駄ではありません。

 

それは、時にはアウシュヴィッツの強制収容所のような死の場所となるでしょう。しかしそこにも愛の光はあるでしょう。いや、むしろ暗闇のトンネルだからこそ、唯一の、光の輝きと優しさを目撃し味わうのです。そして、自己を犠牲とした一枚の黒パンにさえ愛の光を味わった人は、十字架を経験した人であるのです。もはや闇を恐れません。神はわたしたちにも告げています。この闇の先の出口には必ず復活の光があると。わたしはあなたと共にいると。「光は暗闇の中に輝いている。」(ヨハネ福音書1:3)

 

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