聖書研究

死ぬような経験を何度もしたのにマイナス志向にならなかったパウロ

使徒言行録14章19節-28節   中川俊介

18節までは、リストラの人々がパウロとバルナバのことを神が降臨したのだと思って礼拝しようとしたことが大きな出来事として記録されていました。町は二人の話題でもちきりだったことでしょう。ところが、評判が高まればその弊害も出てきます。パウロとバルナバはアンティオキアとイコニオンで迫害されたので、リストラまで逃げて行って福音を伝えたわけです。その評判がアンティオキアとイコニオンまで伝わったために、以前のユダヤ人迫害者たちがわざわざリストラまでやってきて二人の活動を止めさせようとしました。19節に詳細は書いてありませんが、悪意を持った人々は、自分たちだけでは力不足なので、二人の活動に不満を持っているリストラのユダヤ人や無知な群衆を扇動して、パウロを処刑しました。裁判や弁明のことが書いてないので、おそらくリンチのような形で死罪にしたのでしょう。「石で打たれたのはパウロだけであり、バルナバには迫害の手が下らなかったのは、パウロが主として語る人であり、そしてその言葉が真理の刃をもって人々の心を刺したからであろう。」[1] 当時の処刑の一つである石投げの刑です。以前、ステファノが殺された時もこの方法でした。「ルカはこの部分を一種の悲哀をこめて描いている。少し前は、パウロを神としてあがめた異邦人の群衆は、彼を殺そうとしたのである。」[2] 人生にはそんなことがよく起ります。これを文学的に作品化したのはシェークスピアでしょう。特に福音の意味を知らない者は、信仰の骨格が形成されていないため、状況の変化に敏感で、態度を変えやすいものです。

さて、処刑されたパウロは、血を流し、失神しおそらく呼吸も止まったように見えたでしょう。「パウロは、このとき、おそらく死んだのです。」[3] それでなければ、刑が中断されるはずはありません。そうした人間の悪意にも拘わらず、神の御心はパウロを生かすことでした。神の御心なしには、人は死なないのです。後にパウロは書いています。「死ぬような目にあったことも度々でした。」(第二コリント11:23)パウロが生き残ったことで、さらに広範な地域で異邦人に福音が伝えられたのです。また、その時の傷はパウロの生涯を通じて残りました。「わたしは、イエスの焼き印を身に受けているのです。」(ガラテヤ6:17)昔の記録にパウロの足が曲がっていたと書かれているのもこの事かもしれません。それでも、パウロは本当ににこやかで、温和な人だったそうです。福音が彼を変えたのです。

パウロを処刑したと思い込んだ暴徒は、パウロの体を町の外に廃棄しました。そこにパウロのことを心配した弟子たちが集まってきたのです。ある者は神の助けを祈り、ある者は懸命に介抱したのでしょう。人々の願いが天に届き、パウロは息を吹き返しました。一種の奇跡です。普通の出来事なら、ここでパウロは皆に守られながら町を脱出する場面でしょう。しかし、神がパウロに示した道は違いました。それは、あの悪意に満ちた群衆がいるリストラの町へ戻ることでした。普通の人間なら、身の安全しか考えません。しかし、パウロは決然とした面持ちで町に入ったのです。「このタフな力は、どこからくるのでしょうか。わたしたちを支えてくださる、神からくるのであります。」[4] この様子をみて、パウロを神だと思っていた無知な人々は、今度はパウロの不死身な姿に仰天したでしょう。また、アンティオキアとイコニオンからきた人々は、二人の命を守った神の働きに恐れをなし、それ以上何をすることもできませんでした。そこで、パウロとバルナバはリストラで一泊し、翌日、デルベに旅立ったのです。これは大変なことだったのに簡潔にしか書いてありません。「このことを、ルカは何と簡潔に述べていることであろう!」[5] どうしてでしょうか。皆さんの意見はどうでしょうか。

デルベとは、リストラからさらに東へ100キロ近く行った場所です。おそらく、イストラもデルベも同じ街道沿いにあったのでしょう。この道をさらに進めば、パウロの故郷であるタルソスに向かうのです。21節にあるようにパウロとバルナバは負傷したことをものともせずに、デルベでも福音を知らせました。彼らにとって福音の伝道が使命だったのです。イエス・キリストの十字架の死と復活によって、人類への新しい夜明けが到来したことをどうしても伝えたかったのでしょう。デルベでも多くの弟子ができました。現代では、「弟子化」という用語があるくらい、イエス・キリストに従う者を生みだすのは特殊なことになっています。ところが、初代教会の伝道では、神の働きによって弟子が生まれています。人為的な「弟子化」ということは聖書に書いてありません。日本でも同じことがありました。日蓮が迫害されて、佐渡に島流しになった際に、あまりの貧困と飢えと寒さに遭遇してもひたすらに題目をとなえる姿を見て多くの人が帰依していきました。真実な姿には不思議な働きが伴うものです。

さて、また驚くべきことに、デルベでの働きを終えたパウロとバルナバは、あれほどの迫害を受けたリストラ、そして悪意を持つ人々が潜むイコニオンとアンティオキアへと同じ道を引き返したのです。このことの理由の一つは、デルベより東の部分はローマ帝国の直轄地ではなく行政的に別の地域であり、ローマ市民であったパウロにとって、ガラテヤ州のほうが活動しやすかったという面もあります。ただ、22節に書いてある、苦しみの受領の精神から判断すると、二人は死ぬ覚悟でこの旅をつづけたことがわかります。苦しみの意義はパウロの手紙に頻繁に書かれています。「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」(ローマ8:17)「あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。」(第二テサロニケ1:5)イエス様の十字架のように、苦しむことが天国への門を開くことであるとの確信があったのでしょう。これこそ、エルサレムで怖れていた弟子たちに勇気を与えた聖霊の働きです。パウロとバルナバは聖霊に満ちていました。聖霊に満ちていたからこそ、無限の励ましを与えられたのです。そして、信仰を持つことが不安材料になっていた人々をケアし、彼らが信仰に留まるように励ましたのです。「入信するということだけで終わり、信仰を持ち続けることがいかに困難かということは、牧会者ならだれでも知っています。」[6] 「彼らは新しい信者がユダヤ教や異教にもどってしまわないように励まし、容易な道を選ぶことに対して現実的な警告も与えた。」[7] この「励ました」という言葉はギリシア語のパラカローであり、「呼び寄せる、嘆願する、熱心に説く、訓戒する、慰める」などの意味があります。興味深いことに、その働きは聖霊(パラクレートス)と同じです。前述したように、弟子が生まれたのは、聖霊に満たされたパウロたちが、「人々を呼び寄せ、嘆願し、福音を熱心に説き、誤った生活を訓戒し、傷ついた魂を慰めた」からでしょう。現代でもそれは変わらないでしょう。教会の牧師や信徒が力を合わせ、「人々を呼び寄せ、嘆願し、福音を熱心に説き、誤った生活を訓戒し、傷ついた魂を慰め」るならば、イエス様の宣教の願いを継続させることができます。信仰の継続について、皆で話し合ってみましょう。

23節には、パウロとバルナバの伝道方法が書いてあります。教会ごとに長老を任命したのです。エルサレム以外では、最初の任命でした。「自分たちがこれまでしてきた仕事をその人びとにゆだねた。」[8] まさに弟子化であり、それは様々な分野でも共通なことですが、簡単に言えば、先生のコピーをつくることです。イエス様が弟子をつくり。その弟子たちが、再び弟子をつくり、教会は存続してきたのです。ですから、教会が講演会の傍観者の場所のようになってしまったらその生命力と宣教の力を失ってしまいます。そして、それは名目上の任命ではなくパウロとバルナバは何度も断食して祈り主にまかせたのです(使徒言行録13:2参照)。弟子をつくるのも主なる神だからです。指導者のいない組織程弱いものはありません。長老の働きは「礼拝、信仰教育、弟子訓練、慈善的奉仕などを監督することである。」[9] パウロとバルナバは宣教のために殉教することも恐れていなかったのですが、そういう人が長老、あるいは牧師にならなくては激しい迫害に耐えることはできません。ただし、「長老たちが立てられさえすれば、あとはその人たちがやってくれるだろうとか、その人たちの言うとおりにただ従っていればいいのではなく、教会がかしらでいます主イエス・キリストのみこころに従い、主のみこころがあらゆる点に至るまで、はっきり表わされるためなのです。」[10] また、断食も個人の成長の為ではなく、教会の発展の為でした。わたしたちは自分が伝道推進のために何ができるかを考えてみましょう。

その後、パウロとバルナバはピシディア州を通りました。これは、ガラテヤ州の南にあるローマの州のひとつであり、地中海に面した場所です。二人は随分と長い距離を旅したものです。ベルゲというのも海岸近くににある町です。ベルゲはアレクサンダー時代(紀元前4世紀)から栄えた町です。今でも浴場跡とか一万人以上収容できるスタジアム遺跡があるそうです。ここからわかるようにパウロは、ローマ帝国内の大都市を中心に伝道していたようです。そこから近くのアタリアという港町に行き、シリアのアンティオキアに向けて船出しました。ちなみに、これはパウロの第一回伝道旅行と呼ばれています。パウロとバルナバは彼らが送り出されてきたアンティオキアの教会で活動を報告するために帰ったのです。伝道資金などもアンティオキアの教会が負担していたのかもしれません。それにしても、26節に「神の恵みにゆだねられて送り出された」と書いてあることにも、彼らの信仰的な示されていると思います。

27節に、いわば伝道報告会のようなものが開かれたことが書かれています。パウロたちが大変な危険に遭遇して、なお生き残って伝道の働きを続けたことの背景には、アンティオキアの教会の信徒たちの熱心な祈りがあったことは否めません。パウロとバルナバが無事に帰ってきたことは教会員にとって大きな喜びでした。そこで、開口一番、パウロたちは神が自分たちと共にいてくださったと述べました。あの危機を乗り越えられたのは、神の働きとしか考えられません。いつの時代にも危機がありますが、教会は信仰の祈り、そして愛の働きを通して主の働きを継続してきたのです。また、自分たちの業ではなく、神が行われた素晴らしい働きがあることを伝えました。「強調点は異邦人の間での働きの成功は神が導いて下さったということです。」[11] 決して自分たちの業ではないのです。「これを読んで、身を切るような痛さと、それを越える福音の喜びと、その両者を含む神の経綸・聖霊の働きを痛切に感じさせるものがある。」[12] そして、もともとは海外のユダヤ人にキリストの福音を伝える働きだったのですが、実際には、改宗者をとおして多くの異邦人に福音を伝えることが出来たのです。これは大きな成果でした。神の働きが人間の思いを越えている証拠です。迫害によっても色々な場所に逃げることによって、多くの教会が設立されました。そしてそこでは長老が立てられたのです。

報告が済むと、パウロとバルナバはしばらく、教会員とともに一年ほどを過ごし、信仰の励みを得たと思います。それまでの活動が嵐の時だと比喩するなら、これは静かな凪のとき、癒しのときだと言えるでしょう。パウロたちは次の伝道のために祈っていたことでしょう。有名な話ですが、内村鑑三先生も、いつもは伝道に忙しかったのですが、夏には静かに休暇をとって次の伝道に備えたのです。わたしたちも、礼拝に於いて日常の働きを終止させ、神の御言葉において伝道の器とされたいものです。

[1] 矢内原忠雄、「聖書講義1」、岩波書店、1977年、766頁

[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、139頁

[3] 尾山令仁、「使徒の働き上」、羊群社、1980年、532頁

[4] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、210頁

[5]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、187頁

[6] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、535頁

[7] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、241頁

[8] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、188頁

[9] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、140頁

[10]前掲、尾山令仁、「使徒の働き上」、538頁

[11] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、240頁

[12] 前掲、矢内原忠雄、「聖書講義1」、769頁

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