閑話休題

SONGS15周年と大泉洋

今では、大泉洋を知らない人は少ないでしょう。しかし、以前の彼は北海道のローカルタレントでした。「水曜どうでしょう」という深夜番組を初めて見たのが、20数年前でしたが、その頃にも既に彼独特のトークの面白さが光っていました。彼は仕事を長く続けるのを、一つの信条としているようです。ということは、逆に考えると、視聴者を飽きさせない努力をしているということになるのでしょうか。彼が人を笑わせる話術を持っていることは皆が認めることでしょう。しかし、大勢のお笑い芸人と違った点があります。それを、彼のトークを聞いていて発見しました。それは、彼の言葉を借りれば、「心の本音」を引き出す能力に長けているということでしょう。日本という文化の中では、忖度や儀礼、礼儀、そして面子などが重層的に人々の心を圧迫し、「心の本音」はなかなか語られません。しかし、大泉洋の番組の中では、誰も心を開き、自分の弱さを見せ、失敗を語り、彼らの「心の本音」を視聴者に伝えることができます。そのお産婆さんのような役割をするのが、大泉洋は特別に上手なのです。彼のトークには嫌味もなく、視聴者が出演者の「心の本音」に素直に共感できるのも、大泉洋のタレントとしての能力によるのでしょう。そして、この「心の本音」ということは、旧約聖書には実に如実に描かれています。ですから、聖書の教える生き方は、「宗教」という組織化された思想ではなく、一個人が神との遭遇の中で、どのような「心の本音」を語ったのかが記録されているので、興味は尽きないのです。新約聖書でも同じことがいえます。イエス様の伝道にはこの「心の本音」と信仰とは、切っても切り離せないものだったと思います。その「心の本音」の美しい出来事が福音書に記録されています。「盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところにきた。イエスは『何をしてほしいのか』と言われた。盲人は『先生、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ福音書10章50節以下)「何をしてほしいのか」という問いかけが、「心の本音」を引き出しています。もし、大泉洋を日本版イエス・キリストとして演じさせることができたら、こうした「心の本音」を引きだす場面での、名演技が見られることでしょう。それはそれとして、キリスト教を「宗教として」ではなく、神の絶対愛との接点として考える時には、「毎日どうでしょう」ということになり、どんな時でも、わたしたちの「心の本音」を神に語りかけるだけでいいのです。

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