閑話休題

喜劇俳優ウィル・スミスのアカデミー会場での暴挙

"LOVE MAKES YOU DO CRAZY THINGS." ウィル・スミスは謝罪のスピーチの中でこう言いました。相手にビンタをくわせるという暴挙の原因は、アカデミー賞の司会をしていたクリス・ロックという人が、ウィル・スミスの妻の脱毛症の事を会場でジョークにして笑ったからです。ウィル・スミスはこうも言いました。「自分は芸能人だから、揶揄されることは仕事の一つだと思っている。しかし、妻へのあざけりはゆるせない。」そして、冒頭に書いたように、「愛は人に狂ったようなことをなさせる」といいました。キリスト教も愛の宗教と言われていますが、これについてはどう考えたらよいのでしょうか。確かに、ウィル・スミスの言った事にも一理あります。差別用語が含まれているので、記載することはできませんが、日本のことわざでもウィル・スミスの言葉に似たものがいくつかあります。少し軽い表現としては、「目に入れても痛くないほど」愛している、などでしょう。ただ、少し冷静になって考えてみると、これは仏教が人間の強欲の一つとして禁じる愛(執着の意味)ではないでしょうか。良く知られた話ですが、最初の日本語訳聖書をつくる際に、「神の愛」をどのように訳すかが議論となったそうです。「愛」とは禁じられた用語だったからです。彼らが苦心して生み出した訳語は、「神の御大切」でした。これには、執着の意味がありません。おそらく、ウィル・スミスが言った「愛」というのも、妻に対する一種の執着なのではないでしょうか。また、ウィル・スミスに限らず、わたしたちも愛と執着を混同しているのかもしれません。家族に対する愛が、実は執着や支配欲からきている例も多々あります。ペットに対する愛はどうでしょうか。世界では、飢えて死んでいく子供たちがたくさんいるのに、自分のペットには散財を惜しまないのも、執着のように思えます。仏教が教えるように、執着とは悪であり、その悪の根源は自己中心的思考だという事ではないでしょうか。ですから、昔のクリスチャンが「神の御大切」と訳したのは正解だったと思います。そこに見られるのは、相手中心の優しさであり、自己の欲への執着が見られないからです。では、最後に愛に関する聖書の言葉をご紹介しましょう。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」(第一コリント13章4節以下)勿論、新約聖書が書かれた当時のギリシア語には、執着をあらわすエロースとかフィリオースという愛の用語もあったのですが、これを書いたパウロは、神の自己犠牲的絶対愛を伝えるために、アガペーという用語だけを用いています。この絶対愛で、神が罪深い自分でさえ深く愛して下さっていることを知って、パウロの自分の利益への執着は消えたのです。そして、罵られても、軽蔑されても、痛めつけられても、心の平安を失わない人間に成長させていただいたのです。そのことを、神学用語では、「キリストの内在」と言います。印西インターネット教会が目標としているのも、この「キリストの内在」を、できるだけ日本の多くの人に体験していただくことです。

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