人生が孤独だと思った時に読む説教
「もう一人じゃない」 ヨハネ17:20-26
皆さんは孤独ですか、それとも友達が多い方ですか。イエス様の弟子たちは3年間イエス様と寝食を共にして伝道の働きをしました。これは友達以上の関係だと思います。しかし、イエス様が十字架にかけられて処刑され、その後、復活の知らせがあったものの、彼らはイエス様を中心に集まっていましたので、イエス様を失ってバラバラになってしまいました。けれども、復活されたイエス様は、弟子たちに三位一体(父なる神、子なるキリスト、弟子たちに注がれた聖霊)の真理を完成させる聖霊降臨が来ることを予告しました。わたしたちが教会で祝う聖霊降臨祭りは、まさに教会の誕生日であり、バラバラになっていた弟子たちが父なる神と子なるキリストに結び合わされたことを記念するのです。キリスト教の信仰の強さは、個人の能力には依拠しません。立派な人で、能力があるから信仰が強いということは言わないのです。その人がどんな人であれ、神の愛には差別がありません。また、神が与える聖霊による信仰にも差別がないのです。イエス様の伝道の目的とは、単に道徳を教えるのではなく、神との一体化を実現することだったのです。そして、それは、イエス様においては既に実現されていたことだったのです。
さて、ヨハネ福音書の本文を見てみましょう。20節では、「彼らの言葉を通してキリストを信じる者」という表現が見られます。イエス様の十字架処刑のあとで弟子たちの多くが失望しましたが、見える目標を失った彼らを励まし勇気をあたえるものは、見えない言葉しかありませんでした。しかし、実は、この見えない言葉が大切だったのです。見える者は過ぎ去ります。
聖書では見えない言葉の事を「ロゴス」と書いてあります。ロゴスである言葉とは不思議なものです。クリントン氏が大統領だった頃に、奥さんのヒラリーの故郷を訪ねたことがあったそうです。その時に、偶然に立ち寄ったガソリンスタンドのオーナーが、なんとヒラリーの昔の恋人でした。ちっと気まずい状況ですね。しかし、夫のビル・クリントンは言いました、「君は僕と結婚してよかったね。あの人と結婚していたら、今ごろはガソリンスタンドのおかみさんだよ。」ところが、ヒラリーは言い返しました。「違うわ、ビル。もしわたしがあの人と結婚していたら、あの人が大統領になっていたのよ。」(笑)確かにそうです。女性が男性を教育しているのです。ヒラリーの言葉は大統領を生みました。同様なことが、弟子たちにも言えるでしょう。復活を伝える弟子たちの言葉がなかったら、多くの人は失望したままだったでしょう。
次の節には、まさに三位一体のことが書かれています。つまり、父なる神がイエス様の中におられ、イエス様がわたしたちの中におられ、また、そこにいない人々もイエス様とわたしたちの共同体の中(教会)にいるというのです。こうしてわたしたちが、み言葉に接しているのもそのしるしなのです。こうした一致の逆は隔離です。「人が独りでいるのは良くない」というのも、聖書の教えです。他者から隔離された孤独老人の心配事は、だれにも看取られないで一人で死ぬことだと、80パーセントの人が思っているそうです。ただし、キリスト教にはそういう心配がありません。なぜなら、イエス様が教えたように、「父なる神がイエス様の中におられ、イエス様がわたしたちの中におられる」という一致があるからです。
実際に、信仰者には、まわりに物理的に誰もいなくても孤独死はありえません。神とキリストとわたしたちが一致しているからなのです。インターネット教会も見えない教会ですが、教会に接点があるということは、大きな恵みであり、神様が孤独な人生から救い出す働きをしてくださっている証拠です。
さて、この一致の結果、ギリシア語のドクサが生まれます。日本語では、ドクサとは栄光の意味です。これは、ユダヤ教の長い伝統からきている「シェキナー」という用語のギリシア語訳です。それは古代の礼拝に於いて、神殿内の至聖所を照らす神聖な輝きを示す言葉でした。当時は祭司しかることができなかった至聖所での、神からの栄光に、わたしたちも聖霊をとおしてあずかることができるわけです。偉大な恩恵だと思います。そして、礼拝最後の頌栄はドクサからきたのでドクソロジーとも呼ばれます。礼拝式文ではドクサはグロリア(栄光)であり、栄光とは父と子と聖霊の三位一体性を讃美すること、そしてわたしたちも、一人ではなく教会の体として、教会の手や足として聖霊の具体的な導きをいただいていることの喜びをあらわすものです。聖霊の働きは、使徒言行録にあるように具体的ではっきりしています。
さて、そのあと、イエス様は、神がイエス様をこの世に遣わしたこと、神が無条件の愛で愛してくださっていることを弟子たちが知って、完成された状態になると予告しました。完成とは、十分に成長し成熟の極みに達するという意味です。カトリックの思想家であり社会事業家であるジャン・バニエによれば、成熟した信仰のしるしは、持っていないものを嘆くのではなく、持っているものを喜ぶことだそうです。
逆に、成熟してないしるしは、持っていないものを嘆き、持っているものを感謝しないことです。
そして24節からは、イエス様の祈りになっています。大切なのはイエス様が、「神よ」と祈っているのではなく、お父さんと呼び掛けていることです。それほど、イエス様と神様は近い存在であり一体感、一人ではない一致があったということです。
25節には正しい父よという表現が見られます。この正しいというのは、ギリシア語でディカイオスであって、善悪の意味ではありません。ですから、ディカイオスとは神の義であり、これはもともと裁判用語で、すべてのものの権利を公平に扱う方ということです。それは、神がこの世の基準とは全く違った基準で、すべてのものを無条件の絶対愛で愛し、その愛によって、成長させてくださり、やがて三位一体の一致、神とイエス・キリストと一つとなること、「もう一人じゃない」ことを可能にして下さるという意味です。それによって、わたしたちも、お父さんと呼ぶことができます。わたしたちは言葉ロゴスによって生かされ、大統領以上の存在として成長できます。ちなみに、ヒラリー・クリントンさんはメソジストの教会で育ち、今でも神の導きを信じているそうです。それだけでなく、現代では信仰が他者を非難するための手段になることを悲しんでいるそうです。信仰を持っているなら、神から自分が何を期待されているか、自分がそれに従っているかを常に自問自答すべきだと考えているそうです。
こうした言葉こそ、まさにロゴスであり、わたしたちの脳裏に刻まれ、DNAに記録された神の無限の可能性をあらわすアルファとオメガのプログラムといえるでしょう。そして、わたしたちが神に結ばれて、もはや一人ではなくなるときに、創造者と被造物の再統合が行われます。ですから、聖霊降臨というのは、単なる三位一体ではなく、天地創造の完成状態とも言えます。それを体験するときに、わたしたちは孤独でなく、「もう決して一人じゃない」のです。これは、わたし自身も体験していることですから、ぜひみなさんにも知っていただきたいと願っています。