自殺の覚悟と生きる覚悟
2020/06/22
コロナの影響で仕事ができないとか、せっかく努力して積み上げてきたものが取り返しのつかない状態になっていることがあると思います。そんな苦しみの時に考えるのは自殺でしょうか。(自死という言葉には少し違和感を覚えます。)それはそうと、わたしも若いころには自殺を考えたことがありました。どうせ人生で一度は死ぬなら、この世の弱い者を苦しめる政治に抗議して焼身自殺をしようかと思ったこともありました。刹那的な思考形態だった訳です。ただ、現在は死について違った考えを持っています。ある晩に、教会に電話がかかってきました。若い青年の声で、自殺するにはどんな方法がいいでしょうかという相談でした。さぞ、つらいことがあるのだろうと思い、ご本人の考えを聞いてみました。毒薬だとか、電車に飛び組むだとか、青木ヶ原だとかさまざまな案がでてきました。電話の音声だけを頼りに、二人でそれらの利点や欠点を話し合ってみました。自殺をやめた方がいいとは言いませんでした。自分だって死にたい時があったのですから、人の気持ちに横やりを挟むようなことはしたくありません。そして、ずいぶん長い間ご本人の話を聞いてから、わたしは言いました。あなたは偉いですね。生きるのをやめる決心ができたのですから。その青年は、意外そうな返事をしました。だって、そうじゃないですか。死ぬほどの苦しみを自分で終わらせようというのですから。最後に、わたしは言いました。そんな決心があったら何でもできますよ。青年は黙って電話を切りました。それから、しばらくは、あの青年はどんな死に方をしたのだろうかと気にかかる思いでした。半年くらいして、同じ青年から電話がかかってきました。意外と明るい声だったのでホッとしました。彼は、あの時に相談にのってくれてありがとうございました、お礼にいきたいですと言いました。不思議なことでした。お礼の方は丁寧にお断りしましたが、人生をあきらめていた青年の心に小さな希望が生まれたことを知って自分も嬉しくなりました。振り返って考えると、アメリカの神学校で神学や心理学を学んで、強い影響を受けたのは、傾聴派のロジャースではなく、フレデリック・パールズでした。彼が実際にカウンセリングをするのを教授がビデオで見せたのですが、その挑戦的なゲシュタルト技術には圧倒されました。それは、単なる受容ではなく、生きる事や死ぬことへの真っ向からの挑戦だったと思います。考えてみれば、パールズもユダヤ人で、人生の辛苦はそうとうに味わったはずです。そんな試練の中から、打たれ強い生き方が生まれたのかもしれません。端的に言うなら、死から命が生まれるのです。無から有が生じるのです。死や喪失は悲劇ではなく、新しい幕開けなのではないでしょうか。人類がこれからも経験しなければならない多くの困難に思いをはせると、その解決法は、既に先人が与えてくれているように思えてなりません。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12章24節)