閑話休題

心の傷を癒す聖書の言葉1

イザヤ書43章4節「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする。」

現代のわたしたちは、過去のさまざまな出来事によって心に傷を負ってはいないでしょうか。最近見た「ブリキの太鼓」というドイツ映画では、三歳の男の子が、心に痛みを覚えて、大人にはなりたくないと願ったことからストーリーが展開していきました。別の項目でも書きましたが、アメリカのカントリーウェスタンの歌手であったナオミ・ジャッドさんは子供の頃に受けたハラスメントが原因で慢性的なうつ病になり、最近、ピストル自殺してしまいました。日本でも、家庭の不和、職場や学校での不快な人間関係、社会生活のストレスなどで多くの人々が傷ついています。投薬やカウンセリングの治療などもある程度は役に立つと思いますが、根本的な心の傷を癒すものではありません。これはとても残念なことです。上記のジャドさんでも、最も優秀な医者にかかり、最先端の薬を投与されていたにもかかわらず、自ら命を絶ってしまったのです。とても残念なことです。何かわたしにも出来ることはないだろうかと考えていたら、自分自身の体験から、聖書の言葉に癒しの力があることを思い出しました。わたし自身も、家庭的な問題から、心に傷を負っていて、キリスト教に出会うまでは、反社会的、反抗的、自滅的、破壊的な性格でした。しかし、聖書の言葉によってだんだん癒されてきました。まだまだ、到達点に達するには程遠い道のりだと思っていますが、わたし自身の経験から、多くの人に役だつ聖書の言葉を伝えていきたいと思いました。今回のイザヤ書の言葉が出発点です。ここで「わたし」と書かれているのは、預言者イザヤの事ではなく、イザヤに啓示を与えた神の事です。つまり、「神曰く」という形になっているのです。聖書ではここが大切です。この世の苦しみの中では、「あの人がこう言った」、「みんながこんな風に思っているのがつらい」あるいは「わたしはこんなに悲しい」というように、「人間の言葉」が支配的です。そして、人間を苦しめているのもほかの人間や、自分自身の言葉です。聖書は、そういう思考法はダメだと教えているように思います。人間ではなく、神なのです。それが、啓示宗教の特質です。神語り、我聞く、というのが大切な宗教姿勢です。これを啓示と言います。ただ、啓示は何でも大切かというと、そうでもありません。この世にはサタンの働きもありますし、あのお釈迦様ですら、安心立命するまでには、サタン(降魔)の試練を受けたといわれます。神からではない言葉を聞いてはいけません。その点では、イザヤ書の言葉は確かな内容を持っています。神の目に於いて、つまり、人間的な視点ではなく、どんな人が何を言ったとしても、神の視点では、わたしたち自身は尊い存在なのだというのです。ここで大切なのは、これは無条件の価値認定だということです。スポーツの世界では、優勝した人と、二位になった人では、その喜び方が違います。社会の価値認定が条件的だからです。二位と一位には雲泥の差があるのが人間世界です。これが、実は、苦しみの原因の一つです。人間社会は条件主義で成り立っています。例えば、家庭で親が、子供たちをその能力によって条件的に差別して育てる場合もあります。人間なんだから仕方がないわけです。しかし、差別された側には、それが心の傷として残るわけです。神は違います。わたしたち一人一人を、一人の例外もなく貴く考え、絶対愛をもって愛して下さるという啓示を、イザヤは受けたのです。これはスゴイことですね。イザヤの生きた時代は、いまから三千年くらい前ですが、その時代も、今以上に、差別社会でした。格差社会でした。わたしの子供の頃の思い出ですが、ある家に障碍者がいて、家の納屋にまるで家畜の様に閉じ込められていて、可哀そうだなと子供心にも感じたことがありました。しかし、わたしたちの創造主である神は、愛情深い親と似ています。家族に障碍者がいても、健常者の方を優先することはありません。同等に愛するでしょう。愛とはそういうものです。平等なのです。子供の頃に読んだ本のなかに貧しい農家で育った人の経験が書いてありました。その家のおやつは、炒った豆でした。お母さんが大勢いる子どもたちに豆を与えるのですが、子供たちは、自分だけが少しでも多くもらおうとして、必死になって豆の数を数えました。しかし、誰の豆の数も、いつも、同じでした。お母さんは、子供たち一人一人を平等に愛していたわけです。あの子は可愛いけど、この子は憎らしいということがなかったのです。神の愛とはそれに似ています。ただ、それだけではありません。イザヤの言葉の最後に書いてありますが、神はわたしたちの罪のために、身代りになって罪を負ってくださる方を与えると告げられているのです。心の傷の深い原因は、単なる対人関係だけではありません。人間が負っている、自己中心性、愛のなさ、つまり、罪こそが問題の根源なのです。これは、人間的な手段で癒すことができません。極端に言えば、罪から解放されたいと思う事すら、自己中心性なのです、これを文学的に表現したのが、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」という短編です。自分だけが救われたいと願って細い糸を登って行ったカンダダは、他の人も登ってくるのを許せず、その罪(自己中心性)によって元の状態に戻ってしまします。罪とは実に厄介なものです。しかし、イザヤが受けた啓示では、わたしたちの罪の身代わりとなって犠牲になって下さる救い主の到来が、預言されています。それも、神の絶対愛の働きです。これを、深く理解するならば心の傷は癒されていきます。何故なら、この世のどんな人が、どんなにわたしたちを責め、悪く言ったとしても、神はわたしたちを愛してくださっていることを確信しているからです。

-閑話休題