今週の説教

混迷と試練の時代に、まずやるべきことは何かを学ぶ説教

「まずは自分から」            ルカ6:37-49

教会の祭日である聖霊降臨日は、クリスマスやイースターに比べて知名度も低いですし、一般社会ではお祝いされることもありません。しかし、クリスマスが救い主の誕生を祝うのなら、聖霊降臨は多くの弟子たちが生まれ変わってイエス様と同じように伝道を始めたという特別な記念日です。またそれは、十字架による罪の赦しが実証され、弟子たちがこの世の束縛から解放された日でもあります。聖書は、わたしたちにこの聖霊の助けによる喜び溢れる、束縛のない人生の生き方を教えてくれています。

今日の福音書の最初の部分では、人を裁いてはいけないと書いてあります。「裁き」の原語はクリノーという言葉で、これはクリオス、神の主権であり、裁くなとは、神の立場に立つことはいけないという意味です。では、イエス様が「人を裁いてはいけない」とおっしゃったのは、人に忠告したりしてはいけないという意味でしょうか。そうではありません。神のように人に最終判断を下してはいけないということです。イエス様自身も「わたしは世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。」(ヨハネ12:47)と教えています。また、裁いている人を裁いてもいけません。どんなことでも、神という最終判断者、最後の審判に任せることです。また、赦しなさい、与えなさいとも書いてあります。イエス様は考えている人ではなく、まず自分から与えるという行動を優先した人でした。

イエス様の教えを見ますと、非常に具体的ですし、行動には結果が伴うことが分かります。人を赦すときには、神からの裁きを受けません。これは、「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」という「主の祈り」と一貫しています。イエス様が望んでいたのは、人間が神の立場に立たない社会でした。大切なのは裁かないで赦すことです。まさに十字架の神学といえるでしょう。だから、イエス様は十字架にかけられた時も、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と語っています。わたしたちは礼拝の時だけでなく、毎日の生活で、まず自分から十字架を見上げ、人を赦すことを学ぶ必要があります。

次にイエス様は、与えることを強調しました。その結果は、物が足りなくなるのではなく、あふれるほどに多くなるというのです。不思議です。おそらく、イエス様と弟子たちのグループは3年間一緒に活動しましたが、彼らがいつも与えるという姿勢を持っていたがゆえに、社会の多くの人々からそれ以上のものを与えられていたに違いありません。与えるものは与えられるのです。

41節にあるように、他人の眼の中のゴミ、つまり、他者の欠点はよく気になるものです。イエス様は、自分が神でもないのに、神のように神聖な裁きの立場に立ち、人の目の中の小さなゴミ、つまり欠点を批判するという僭越な行為を禁止しました。聖書は、ここで他人しか見ていないわたしたちの前に、鏡をおきます。自分の本当の姿を見なさい、と教えます。

わたしたち自身の真実の姿を知ることは大切です。こんな話があります。ある人が地方の支店に出張したそうです。そこで働く後輩の山田君の活動が気になって、そこの営業所の人に評価を聞いてみました。すると、Aさんという人がいいました、「山田君は挨拶もしないし、人の目を見て話しもしない。営業には失格だよ。」もう一人のBさんに聞いてみると、「山田君は、はきはき挨拶するし、愛想もよくて話しやすい。営業にはうってつけだよ。」まったく逆の意見でした。後で分かったのは、山田君を批判したAさんは、自分では挨拶をしない人で、いつも気難しい顔をしていて近づきがたい雰囲気の人でした。反対にBさんは柔和な性格で、誰にでも自分から話しかけます。つまり、他者は自分の鏡だったのです。

他人を意地悪だと批判する人は、自分を鏡で見ているに過ぎません。そんな時は、自分が意地悪なのかも知れません。自分が悪意に満ちているときには、他人の悪意に敏感になるそうです。ですから、イエス様の教えというのは、悪意に満ちたAさんのようではなく、他人を赦し、温かい寛容な心で見るBさんのように行動しなさいという教えなのです。

やはり、人間の問題は罪です。罪があるから、自分の問題と自分の姿を見る鏡が曇ってしまって相手のせいにしているのです。創世記を見ますと、人類の罪による兄弟間の殺人事件のことが書いてあります。兄のカインと弟のアベルは両方神に捧げものをしました。兄は農業でしたから、単に収穫した作物をささげました。ところが、牧畜をしていたアベルは羊の中でも一番肥えた初子、つまり最高のものを、神にささげたのです。神はアベルの捧げものを喜び、カインの捧げものは目を止めませんでした。この背景にあるのは罪の問題です。カインは敬虔さを欠く自分の姿を見ないで、弟を恨み、殺害したのです。カインだって、努力して、最高の捧げものを神にささげることができたはずです。しかし、鏡で手抜きをしていた自分を見ないで、自分はアベルによって恥をかかされたと腹を立てることしかできなかったのです。

ではそうならないためにはどうしたら良いのでしょうか。聖書には「主を畏れることは知恵の初め」(箴言9:10)とあります。本当の知恵に生きるには、神への畏れと、神に最高のものをささげる敬意を持つことです。そして、神を礼拝し、み言葉の鏡によって自分の生活や考え方を神に教えていただくことです。この方向転換が悔い改めのことです。コロナのために物理的に礼拝に出ることは困難であっても、み言葉に触れて、今までの自分の姿勢を反省することはできます。それが、悔い改めです。

実は、旧約聖書の日課に登場するエレミヤも、「お前たちの道と行いを正せ」という神の言葉を礼拝に来ている人々に告げるように命じられました。先ほどの支店の例話で、山田君を批判していたAさんならば、批判、裁きをやめて、まず自分自身が「自分の道と行いを正せ」と方向転換を命じられているのです。まず、自分が変わることです。

まずは自分から率先して神の言葉を実行したいものです。米沢藩を改革した上杉鷹山をケネディー大統領は尊敬していました。ただ、その上杉鷹山を教えた、儒学者、細井平洲という先生がいました。この先生は鷹山に、「学思行相まつ」学び思索し行動することが、相互に必須であると教えました。行動の強調は、「信仰のみ」という宗教改革の根本原理と反するようです。ただ、ルターは、良い行いは必要である、それは恵みを勝ち取るためでなく、神のみこころなのだから、これを誠実に実践するようにと教えています。初代教会の神学者も、「信仰はよい意志と正しい行いの母である」と述べています。信仰とは行いの母です。信仰とはローマ軍の百卒長のように「行けと言えば行き、来いと言えば来る」神意に従う従順な行動の母体なのです。信仰と行動が相反するものではありません。では、その、「神意、御心」とは何でしょうか。イエス様は教えました。「神を愛し隣人を愛すること。」それを行動に移すことです。Aさんのように、他人を批判しないで、まず自分自身がBさんのように親切な人になって行動することです。

ただ、まだエレミヤの時代のように「神の声に聞き従う」行動が生まれていない場合もあります。でも、心配はいりません。弟子たちも、もともとはカインやAさんのような性質もあったでしょう。だからこそ、イエス様は聖霊降臨を預言したのです。聖霊降臨によって、必ずみ言葉を行動に移すことができるようになります。み言葉を聞いていることが、もはや聖霊のしるしです。まず自分自身が、学び思索し行動しましょう。喜び溢れる人生をさらに経験することでしょう。

 

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