聖書研究

決別を恐れないパウロの姿勢から学ぶ

使徒言行録18章1節-17節  文責 中川俊介

パウロの手紙の中で「コリント信徒への手紙」は有名です。内容も非常に豊かだといえます。コリントはアテネに並ぶ都市国家の一つでした。「パウロの古代社会における旅行日程は、宗教、思想、政治の中心を通っている。」[1] ただ、アテネが現在でも繁栄しているのに比べると、コリントは今では古代遺跡にすぎません。コリントは紀元前146年にもローマに抵抗して粉砕され、廃墟となっています。この町の宿命でしょうか。

パウロはアテネからこのもう一つの大都市であったコリントに行ったと1節に書いてあります。「アテネでは、多くの学者たちが、福音を聞いてくれましたが、信仰者は、きわめて少なかったのであります。」[2] ここで出会った夫婦はポントス州の出身でした。ポントス州は現在のトルコ北部の地域で黒海に面した豊かな地域だったようです。この夫婦はアキラとプリスキラ(プリスカ)というユダヤ人でした。ここで敢えて二人の名前をあげたのは、特別な出会いだったからでしょう。パウロはローマ信徒への手紙16:3でも二人の名前をあげて「命がけでわたしの命を守ってくれた人たち」という説明をつけています。そのほかに、第一コリント16:19でも、この二人のために挨拶を書いています。また、第二テモテ4:19でも、二人への親密な挨拶がみられます。ですから、パウロにとってもアキラとプリスキラに出会えたことは大きな励みであったのではないでしょうか。ともすれば伝道者は孤独な者ですが、この夫妻の温かい歓待がパウロを力づけたのでしょう。「プリスキラの名前は夫よりも頻繁に述べられているが、これは彼女の存在がキリスト教の立場から見て重要だったからであろう。」[3]

それはともかく、アキラとプリスキラとの出会いの背景には政治的な出来事がありました。彼らは、クラウディウス帝のユダヤ人追放令(49年)によって、ローマから移ってきたのでした。「彼らはこの追放令を失敗とはとらえず、新しい場所で福音を証しする良い機会ととらえていた。」[4] ローマの治安問題が原因だったようです。「ローマのユダヤ人社会は、キリストのゆえにおおやけに騒擾、騒乱を起こした。」[5] パウロは、二人に出会っただけでなく、同じテント造りの職人だったので、彼らの家に住み込んで一緒に仕事をすることにしました。パウロにとっては久しぶりの家庭的な雰囲気の中での生活だったと思います。そうやって仕事をして生計を立てながら、パウロは安息日ごとにユダヤ教会堂で伝道しました。パウロの伝道は先ずユダヤ人に救い主イエス・キリストの十字架と復活を説くことでした。

さて、そのような日々を過ごしている時に、ベレアで別れたシラスとテモテがやってきました。二人とも無事だったのです。パウロはこの二人のためにも熱心に祈っていたことでしょう。彼らが到着すると、パウロは御言葉の宣教に専念することになりました。シラスとテモテがマケドニア地域(特にフィリピ教会)からの献金でパウロの生活の支えをしたからです。そのような支えを得て、5節にあるように、パウロはイエス様こそ救い主(メシア)であると熱心に説いたのです。

しかし、その説教に対する反応はどうだったでしょうか。コリントのユダヤ人は、非常に世俗的で、6節にあるように、話を聞くだけではなく、パウロにたいして罵詈雑言をはなったのです。パウロもこれには立腹しました。服の塵を払って、決別しました。日本語でも「袖を払う」という表現があって、これは「袖に着いた塵を払い落す」と同義であって、自分の意志を貫くのに邪魔になるものを払いのけるという意味です。わたしたちはどうでしょうか。相手の事を思いすぎて、神の御心を曲げてしまうことがありはしないでしょうか。話し合ってみましょう。

パウロは、6節の言葉を述べて、コリントのユダヤ人たちとは絶縁しました。クリスチャンらしくない態度のように思えますが、イエス様も人々が福音を聞かないならば足の塵を払えと命じています(マタイ10:14)。だからといって、相手を憎んでいるわけではないのです。全てが神の定めた時によるのです。無理やり頑張るのは、御心ではなく自我の働きとしての熱心さかもしれません。これは避ける必要があります。そこで、パウロの伝道は当面は異邦人に限られることになりました。パウロもこれが神の定めた決別の時だと、祈りの内に判断したのでしょう。それにしても、これは大きな方向転換でした。

7節を見ると、パウロが会堂を去り、会堂の隣にあったユストという人の家で伝道することになったのが分かります。「このことによって、会堂にいつも来ていた人々は、彼らのおきまりのコースを変更しなくてもパウロの話を聞くことが出来た。」[6] これは安息日に歩くことが許された短い距離を考慮すると大切なことだったでしょう。神の配剤とも言えます。ただし、会堂のユダヤ人がすべて反パウロだったかというとそうでもなく、会堂長のクリスポは入信しています。それも、家族全員が信じたのです。「このクリスポは、パウロ自身が洗礼を授けた数少ないコリント人の一人である。」[7] それだけではなく、コリント市内の多くの者が洗礼を受けました。パウロの言葉に聖霊の働きがあったのでしょう。「主のために多くの民を備えるのは、使徒のすることではない。」[8] それは、イエス・キリストにおける神ご自身の働きです。

そうして過ごしている時に、主が幻のなかでパウロに直接語りかけました。それは大いなる励ましの言葉でした。恐れない事(第一コリント2:3参照)。伝道説教を止めない事。神が共にいてくださる事。コリントには神を信じる者が多くいる事、などでした。わたしたちも弱ることがありますが、神が共に歩んでくださるという啓示はなんと心強いことでしょうか。「苦しむのは彼ひとりなのではありません。主がともにいて、ともに苦しんでくださるのです。」[9] これこそ神共にあるインマヌエルの現実といえるでしょう。「興味あることに、こうした語りかけの形式は旧約聖書で神が僕に語る語法で表現されている。」[10] こうした経験を分かち合ってみましょう。

11節に、その結果が出ています。パウロの心は、ユダヤ人の反抗に遭遇したときには、傷だらけだったことでしょう。しかし、この神よりの直接の語りかけによって、パウロは再度、勇気を持って伝道することができたのです。それまでの伝道旅行では、一ケ所での滞在は短いものでしたが、神の助けもあって、コリントでのそれは一年半に及びました。「パウロがコリントで過ごした一年半は、紀元50年の秋から52年の春と想定される。」[11] これは最も満たされ、実り多い活動の時期だったと言えるでしょう。「この一年半の間に、一世紀では最も力強く活気のある教会をたてあげたのである。」[12]

そうした平穏な時が終わり、またしても迫害が始まりました。ルカが何故一年半の平穏な時期の事を記録していないのかはわかりません。パウロに反対したユダヤ人たちが、暴徒となってパウロを襲いました。そして、コリント市の法廷に連れて行きました。彼らはユダヤ人でしたから、福音が律法に違反していると感じたのでしょう。そうした不愉快が激怒となり、パウロの命をねらう訴えとなりました。

14節にその時の法廷の様子が出ています。裁判官をつとめたのは、何とアカイア州の地方総督であったガリオン自身でした。「ユダヤ人たちが訴え出た相手は、前に祭司長や律法学者や民の長老たちが主イエスを訴えたピラトと同じローマの総督でした。」[13] また、ガリオンは有名な哲学者セネカの兄弟でしたが、養子に出されたのでガリオンと名前を変えたのです。立派な人であったと記録に残っています。しかし、紀元65年には、ネロ皇帝の迫害によってセネカと共に犠牲になっています。さて、「ガリオンがアカイア州の総督として登場した事によって、天よりの啓示が現実のものとなったのである。」[14] この際に、パウロは最初に弁明しようとしました。ところが、14節にあるように、ガリオンがそれを遮って、訴えてきたユダヤ人を叱責しました。パウロにとってはまさに天の助けでした。ガリオンの意見は正論でした。「これはまことに名裁判と言うべきです。総督ガリオンは、自分が取り上げるべき問題と、そうでない問題とを明確に区別しておりました。」[15] ガリオンの態度は、ローマ帝国が法治国家であった証しとも言えるでしょう。つまり、刑事事件なら、法廷で審議するのは当然だ、だが、内容が宗教の意見の違いではないか。それはこの法廷が関与することではないし、地方総督が関与すべきことでもない。まさにその通りです。ただここで、ガリオンの口を通して、問題になっている点が明らかにされています。一つは、ユダヤ教の教えについて。これはたぶん預言書のメシアに関する解釈のことでしょう。次に、名称というのは、イエス・キリストの名についてでしょう。また、律法についてとは、エルサレム会議の結論などが語られたことでしょう。そのどれ一つをとっても、保守的なユダヤ人には我慢のならない事でした。まして、遠いイスラエルで起こったイエス様の伝道、受難、復活などのことは彼等には実感の湧かないことだったに違いないでしょう。では、日本ではどうでしょうか。コリントと同じように異教の神に囲まれ、物質的な満足が第一とされる社会で、誰が、イエス様の伝道、受難、復活などのことに興味を示すでしょうか。異教社会における伝道の方法論について、皆で考えてみましょう。

それはそうと、ガリオンの毅然とした態度に、怒りと憎しみで沸き立ったユダヤ人たちも、頭から冷水をかけられた思いだったでしょう。そして、16節にあるように、ユダヤ人の暴徒は法廷から追い出されてしまいました。すると、憤懣やるかたない群衆は、そこにいた会堂長のソステネという者を捕まえて、彼に暴行を加えました。ソステネがパウロ迫害の先導者だったのかもしれません。しかし、後にソステネはパウロの手紙に名前を記載されています(第一コリント1:1参照)。つまり彼はクリスチャンになったのです。ガリオンは民衆同士の争いを止めようとはしませんでした。ですが、この異邦人の地方総督であったガリオンの公正な意見によってパウロの伝道は阻まれることがなかったのです。この判例は、ローマ帝国が組織的にキリスト教を弾圧するまでは、大きな助けとなりました。ユダヤ人がパウロを助けたのではなく、異邦人がパウロを助ける事となりました。この部分を読んでも、いかに当時のユダヤ人たちが聖書の思想から離れ、救い主の事を考えなくなっていたかが分かります。これは現代の教会への警告でもあります。教会が単なる宗教儀式や社会活動の場となってしまい、救い主イエス・キリストの福音から離れるならば、神の僕を逆に迫害する立場に堕してしまう可能性もあるのです。しかし、神は、マイナスをもプラスに変えてくださる方です。ですから、パウロに「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」と語りかけてくださったのです。「歴史を支配されるお方は、わたしたちのうちにある小さな問題を解決することなど何でもありません。」[16] 解決しないのは、わたしたちがまだ全幅の信頼を寄せていないので、その時を待っておられるのです。

[1] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、168頁

[2] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、256頁

[3] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、292頁

[4] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、169頁

[5]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、233頁

[6] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、371頁

[7]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、234頁

[8]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、235頁

[9] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、170頁

[10] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、296頁

[11] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、372頁

[12] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、172頁

[13] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、177頁

[14] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、297頁

[15] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、179頁

[16] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、181頁

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