今週の説教

キリスト教の救済観を知る説教

「悪人正機」              マルコ2:13-17

鶴見俊輔という哲学者がいました。この人は後藤新平という明治時代の政治家の孫であって、名門の出身でしたが、とんでもない不良少年で小学校卒業後は中学校も退校処分となり、困った親がアメリカに留学させたそうです。すると急に能力が発揮され、ハーバード大学に入り、その後優秀な成績で飛び級になり、19歳で卒業しました。しかし、その後も色々と苦労しているので、その思想は複雑です。その鶴見俊輔氏のいとこの方が以前の教会の会員にいたので少し話は聞いていました。ところで、鶴見俊輔氏がキリスト教についてこう書きました。「キリスト教は、常に自分が正しいと思っていて、あなたは間違っているという。ところが、聖書を読んでみても、イエスはそういうことは言っていない。不倫の罪を犯した細君をみんなが糾弾しているときに、『罪なき者、この女を打て』と言っている。」つまり、イエス様の教えはそうではないけれど、一般のキリスト教信者の考え方では、自分は善人、他者は悪人となりやすいのです。わたし自身もその点では、反省することがありました。

一方で、鶴見俊輔氏はむしろ破戒僧といわれた一休さんとか良寛さんを評価しました。善人的、優等生的なものにある嘘を見抜いていたからでしょう。「常に自分が正しいと思っていて、あなたは間違っていると」考えたパリサイ人というユダヤ人の中の優等生主義者たちも同じ問題を持っていました。彼らに対しても、イエス様はその偽善を何度も指摘しています。今回の説教題の悪人正機とは、善人ぶった人よりも、自分は悪人であるという自覚を持った人の方に、信仰に入るきっかけ(正機)があるという意味です。

さて、今日の日課を見ましょう。ここの書かれている湖とはガリラヤ湖です。その周辺にはティベリヤというローマ都市もありました。その遺跡にはわたしも行ったことがあります。そして、聖書に登場する徴税人のレビのような人が、ユダヤ人でありながらローマ政府の手先として働いていたのです。彼のような人は一般のユダヤ人からは敵国に味方するものとして嫌われていました。彼らの考えでは、ユダヤ人は善人でローマ人は悪人でした。現代のウクライナ戦争のようなものです。そうした人々に、イエス様はどのように接したのでしょうか。

イエス様は故郷のガリラヤ地方で伝道を開始しましたが、伝道の最初から、問題が生じていることを、マルコ福音書の記者は伝えています。何故なら、イエス様が告げたのは、罪の赦しと癒しだったからです。それを、神への冒涜と考えた人々がいたのです。「善人」たちです。「常に自分が正しいと思っていて、あなたは間違っている」という考えの人々ですね。彼らには悪人正機などは絶対ありえないわけです。彼らにとって、救いとは、いわば階段を登って、頂点に達することです。あるいは正しい手続きを踏む事と同じでした。つまり、祈りや、善行を重ねることであり、人間の努力と誠実さによって救いを自ら獲得することでした。ですから、例えば、イエス様が弟子たちに断食という古い習慣を守る必要がないと教えたので、彼らはそれに反対したのです。また、イエス様の弟子たちは、安息日の律法を守っていないという非難も受けました。イエス様だけではありません。旧約聖書の時代に、既成習慣の嘘を見破り真実を告げた預言者たちは、次々と迫害されていきました。日本でも、太平洋戦争に反対した人は次々と投獄されました。真実は後から分かるものです。わたしもルーテル教会の現役牧師だった頃には、教会行政の嘘を追求する姿勢が原因で嫌われたことがあります。今考えると、そういう点では、現実批判より、むしろ歴史研究が大切であり、説得力があるものです。そして、聖書は全体として人類の歴史を提示しているのです。ですから、聖書を読めば読むほど、人間の過去の歴史を通して、人間存在の犯しやすい過ちを自覚していきます。

さて、伝道の働きには、困難があるが、それでも伝道しなさいとイエス様は命じました。そして、そのイエス様の伝道は風変わりなものでした。伝道計画もなければセミナーもありません。14節にあるように、イエス様が「わたしに従ってきなさい」と言っただけです。これは大変なことです。この時、例の徴税人のレビなどはどう思ったでしょうか。生活はどう保証されるのか。何を信じて従っていくのか。それは、全くわかりません。教え、諭し、納得させて伝道したのではないことだけは分かります。これはまさに神の権威による、以心伝心の世界なのでしょう。

ある聖書学者が言っていますが、「レビへの呼びかけは、単なる招待ではない。この呼びかけは、罪の赦しの印であり、神と人間を隔てる罪の障壁の除去である。」たしかに、単なる説得ではなかったのです。ですから、ただ来なさいと言ったのではないのです。罪人であるレビに対して、既に、救われ、弟子にふさわしいものとして見た方がイエス様だったわけです。わかりやすく言えば、罪とは神との分離、隔離、断絶ですから、そこには神の招きとか、神のみ言葉を聞くという機会はありません。それがあるなら、既に、罪の隔壁は取り除かれているのです。(実際に、印西インターネット教会の説教を読んでおられる方にも、罪の隔壁の除去という悪人正機が与えられているのです。)イエス様に呼ばれること、つまり、現代で言えば説教を通して、神の呼び掛けを聞いていること自体、ここに神との断絶が消えている証拠であります。

逆にパリサイ人のように、「常に自分が正しいと思っていて、あなたは間違っているという」考え、また救いは突然起こらない、階段を上り詰めなければダメだと考えでは、神との断絶は深まるばかりであって、み言葉を聞いても何の変化もおこりません。この救いの認識の根源とは何でしょうか。皆さんには経験があるでしょうか。それは自分の生活に変化が起こることです。勉強が嫌いだった人が好きになること。冷たい人が温かい人になること。それがあるなら、それはもう神の働きです。変化のない人は救われていないのでしょうか。そうでもあるし、そうでもありません。この変化は神の時が来た時に花咲くのです。ツタンカーメン王の墓の中で発見された3300年前のえんどう豆がその一例です。実際に発芽したのです。このような変化が、レビにはすぐ現れました。レビはイエス様に従った時点で、罪の束縛から解放されていたと考えられます。自分の家に大勢招いたことは、既に伝道していたことです。教会でもこういう伝道が必要です。日本の優れた伝道者といえば、浄土真宗の蓮如です。彼は一休さんの友達であり、堅苦しい戒律には縛られていませんでした。そして、各地に報恩講というグループ活動を起こしました。その集まりに、御文という簡単な教義の説明を送り、メンバーに読ませたわけです。この方法で、10年くらいのあいだに浄土真宗は日本最大の仏教集団に成長したのです。印西インターネット教会の伝道も同じです。昔は、パウロも蓮如も書簡を用いました。現代では、インターネットでしょう。これとグループ活動を組み合わせるならば、伝道は推進されます。

さて、レビへの招きは、神からの招きでした。これは確かです。例えば、礼拝という用語は、ヘブライ語でカハール、呼び集められたものの集会です。わたしたちも、実はこのレビへの招きと同じものを受けて、神の前に呼び集められているのです。「あなたが選んだのではない、わたしがあなたを選んだ」(ヨハネ15:16)とある言葉通りです。逆に、わたしが従いたいという気持ちは、何時の日にか、わたしは従いたくないと思ったら消えてしまう、自我の意思の産物にすぎません。これは捨てた方がいいです。ですから、「たとえ、みんながあなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」(マタイ26:33)という、熱心で純粋なペトロの言葉も、自我から生じた虚しい言葉として、イエス様は退けています。イエス様がここで、ペトロの思いに感動して「そうかお前だけは忠実なのだな」なんて言っていたとしたら、イエス様も人間的な指導者に過ぎなかったわけです。残念なことに、現代の日本の宗教のレベルはこの程度のものです。過去の宗教者は違いました。何故ならば、神の人というのは、陽のあたる面だけでなく、負の部分、暗くて自己的で闇となっている部分をも大切にすることが出来て、それを悪人正機として把握できるからです。そして、そのときに赦しが告げられるのです。

15節には、レビだけでなく、社会から排除されていた多くの罪人がイエス様の周囲に集まっていたとあります。ユダヤ人宗教社会で神から捨てられていると考えられていた負の部分の人々と、イエス様は親しく交わったのです。イエス様は律法が定めていた禁止事項を破られたのです。鶴見俊輔氏の子供時代のような、不良少年不良少女とも交わったのです。そこで、彼はイエス様の教えを尊敬したのです。イエス様は、嫌われた人々と食事を共にしただけでなく、最後まで嫌われた人々と共に歩み、彼自らが嫌われた人になり、罪人となり、恨まれ憎しまれて、犯罪人として処刑され、贖いの死を遂げ、罪の隔壁を取り除いてくださったのです。

「わたしに従いなさい」という、イエス・キリストの偉大な招きの言葉は、「わたしがあなたの罪を負い、あなたの受けるべき裁きを、わたしがすべて受け、あなたの身代わりとして死ぬよ」という恵み深い約束にほかなりません。わたしたちが罪深いからこそイエス様が救ってくださるのです。そこに悪人正機があります。わたしたちはこの赦しの招きを説教カハール(招き)を通して今日も受けています。

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