死についての考察1
キリスト教では、死ということを単なる生物学的な死だけでなく、原罪との関係でとらえます。人間の祖先が神の世界に背を向けてエデンの園を出たところから、人間は死に支配されるようになりました。ですから、キリスト教では死と罪(神からの離反)は深い関係を持っています。端的に言えば、神とは光であり、命であり、愛なのですから、死という現象では、光を失い、命を失い、愛を失うことです。今日は、特に命の部分について考えてみましょう。イエス・キリストが「野の花を見なさい」と説教したことは聖書に書かれています。おそらく、野の花のような自然の造形のなかに、神の命の世界を見ていたのでしょう。わたしも趣味で、園芸というより農業(千坪の畑)をやっていますが、植物の成長の中には確かに命のしるしがあります。それは、成長であり、規則正しい世界であり、美しい秩序の世界です。反対に死の世界には成長がありません。わたしが、学生の頃に、熊本の慈愛園というルーテル系の老人ホームでボランティアとしたことがあります。そこで見た老人の世界に命と死の対比がくっきり表れていました。信仰をもった老人には、毎日が違う一日であり、感謝と成長がありました。他方、無宗教の老人たちは、衰えゆく肉体に苦しみ、せいぜい現状維持か、衰退への嘆きで一日が終わっていました。若い頃でしたが、年取ってからは、信仰を持った生き方をしたいなと、思ったことでした。また、命は秩序の世界です。無駄なものやゴミは分解され排出されます。世の中では、ゴミ屋敷なるものが苦情の対象になることがあります。あれは、汚い死の世界です。死は命がないので秩序を維持できず、汚濁の海を形成します。人間が生物学的に生きていても、罪の中に死んでいるときには、秩序を維持する自浄作用を失います。北斗の拳のなかの有名な言葉ですが、「おまえは既に死んでいる!」ということになっているのです。自浄作用といえば、仏教では「断捨離」という言葉がありますが、あれなども、古いものを整理して新しく出発する命の道ですね。お恥ずかしいことですが、教会などでは何年も来ていない人の聖書や讃美歌がそのまま置いてあることが多々あります。たたたま、本人が来て自分の聖書や讃美歌が元のままなのを見て、感動し、教会に復帰するのでしょうか。ありえない話です。それに、そのような人間感情に訴える方法はキリスト教的ではなく、信者にこびている姿でしかありません。ここでも断捨離が必要でしょう。本人に連絡して捨てるか再移用すべきだと思います。教会の古い印刷物や、教会学校のカードなども、博物館ではないのですから、使用期限が過ぎたものから断捨離すべきです。そういう、わたし自身の書斎にも断捨離すべきものがまだたくさん残っていて、これは死の世界に支配されているなと思わざるを得ません。聖書は、「あなたは死んではならない、神が与えた生命を必死で生きなさい」と教えていると思います。それには、断捨離だけでなく、すべての面における自浄作用が必要です。とにかく、死の世界は汚濁にまみれているわけです。学生の頃に、一年間ほど葬儀社でアルバイトをしたことがありました。いわば「おくりびと」の世界です。その仕事の中で、様々な死者を扱いましたが、それまでは、死ぬと肛門や口や鼻などから汚物が出てくることは知りませんでした。生命があるからこそ、汚物を制御しているのですが、死に移行したらすぐに、汚い腐敗が始まります。事実かどうかわかりませんが、日本に伝道に来たフランシスコ・ザビエルはのちに中国の伝道に向かい上川島で没しましたが、その遺体は腐乱しなかったといわれています。これが事実なら、ザビエルは最後まで命の世界に生きたということでしょう。原罪のない、イエス・キリストの復活も、キリスト教では死への勝利として語りつがれています。それにしても、悪臭漂う汚濁より秩序ある自浄作用の世界がよいのは言うまでもありませんが、そこに光と愛があれば、すなわち神の国であり天国なのです。わたし自身は、102歳の母がコロナに感染し、世田谷の自衛隊病院に入院した際に、身の危険も顧みずに感染病棟で愛と秩序と光をもって黙々と働く医師や看護師の姿がこの世の天使のように見えました。あれは神の世界のようでした。おかげで、一か月半の入院ののちに、母は完治して帰宅しました。その間に、何度も生命の危機がありましたが、医師や看護師の働きによって、生命の自浄作用を回復することができたのです。神の働きは、教会の中に限定されたものではありません。内村鑑三氏は代表的な日本人として、彼の尊敬する日蓮の名前をあげていますが、わたしも偉大な仏教の指導者たちを尊敬しています。要するに、命と光と愛、これをアメリカの教会学校ではLIFE、LIGHT、LOVEという三つのLとして教えますが、この三つがあるところに神は存在します。教会伝道が不振だと心配する者もいますが、問題は財源や方法論ではなく、死に打ち勝つ三つのLが不足しているのです。このインターネット教会の記事を読んでくださっている方々も、神(命、光、愛)の無限の可能性を信じ、死の無秩序と汚濁に悩んでいる多くの人々に命溢れる喜びの世界を示してくださるようにお願いしたいと思います。