聖書研究

「受けるよりは与える方が幸いである」というキリストの教えを聖書から学ぶ

使徒言行録20章17節-38節  文責 中川俊介

エルサレムへの旅を急ぐパウロは、エフェソにはよらない決心をしていました。しかし、17節にあるように、教会の長老たちを自分が滞在しているミレトスという港に招いたのでした。約50キロの距離でしたが当時の人は一日で歩くことができたでしょう。「ミレトでは、おそらく船を変えなくてはならないので、パウロは滞留することになった。」[1] そして集まってきた長老たちに、最後の奨励をしました。「パウロの説教の中に、教会とはどういうものかということがよく言い表されております。」[2] 18節以下の言葉の要点をまとめれば、パウロはエフェソ伝道の当初から、自分に頼らず、弱い身でありながら困難から逃げず、主に仕えてきたというのです。ここにはいくつかの、パウロの神学の重要事項が含まれていると思います。「この説教は、おもに奨励的なものであるが同時にあるていどの弁明を含んでいる。」[3] 第一に、自己義認の完全否定です。わたしたちはある程度は自分の力量に頼っている面があり、自分を正しいとしているのではないでしょうか。パウロに関しては違っていました。「取るに足らない」と訳されていますが、原語では、「低い心」であり、これはもともと下層階級という言葉から派生した表現です。ですから、パウロは神の前の自分には何ら正しいところがないと自覚していたことがわかります。「パウロは、いかなる意味でも教会を支配しようとしなかった、決して自分自身尊大にふるまって、高い所に身を置くことをしなかった。」[4] パウロの教会論は徹底して仕えることにありました。それはキリストの姿でもあります。第二に、弱い者が試練を耐え、主に仕えてきたというのです。これは困難の中で信仰の純粋性が問われ、その純粋信仰と奉仕の対象が主であったことを明らかにします。

パウロはエフェソの教会指導者たちに、教会の根本に触れ、自らの信仰姿勢を伝えました。ですから、これは単なる奨励ではなく、信仰の付与でもあるわけです。教会指導者たちに自分の信仰を、まるで親が子供に口移しで食物を与えるかのように、伝授しているのです。「彼は福音の種をまいたが、それに水をあたえるのは長老たちの任務であった。」[5]

そして、21節では、過去の伝道活動をふりかえり、全てを「伝え」てきたと言います。この「伝え」という言葉は、告げ知らせると言う意味ですが、福音の言葉によって新生命を誕生させるという含みがある言葉です。それがパウロの伝道姿勢だったことがわかります。「彼はいのちがけで、体当り的伝道をしています。このからだごとぶつける伝道は、自己犠牲の没我的な生き方の表われにほかなりません。」[6] わたしたち自身はどのように信仰を伝えているでしょうか。皆で話し合ってみましょう。

パウロは、伝えるだけでなく信仰の教育を行ってきました。それは、様々な場所で行われました。会堂のようなところや、各自の家の中でも教理を教えたわけです。これに似た例は、明治時代のロシア正教の宣教師ニコライの日記にみられます。彼は北海道から東北地方の広範囲にわたって伝道し、ほとんど一人で約3万人の信徒を育成したのですが、彼が同じ場所に長く滞在することは不可能でしたので、訪問するたびに教理を教え、自分たちで学びを続けるように励ましたのです。

さて、パウロはその教理の内容に触れます。二千年の時を越えてわたしたちもこの言葉に触れる機会が与えられていることを筆者のルカに感謝したいものです。その教理とは、第一に神に対する悔い改めでした。礼拝で懺悔の部分が最初にあるのは良きキリスト教の伝統であると思います。イエス様も悔い改めて福音を信じなさいと教えました。パウロも同じです。悔い改めとは、後悔や自己批判あるいは反省など、自分という価値判断基準に立つものではありません。むしろ自分は忘れて、神の方に方向転換させていただくことが悔い改めなのです。パウロはこの悔い改めを宣教の基盤としました。そして、第二にイエス・キリストへの信仰です。救い主が本当に救ってくださること、ほかのどこにも救いは存在しない事、ここにパウロ神学の柱が据えられています。「異邦人には神への方向転換である悔い改めが強調され、ユダヤ人には律法を行う義から信仰への転換が必要とされた。」[7] わたしたちの悔い改めと信仰について皆で考えてみましょう。

22節で、パウロは語調を変え、別れの挨拶を述べます。ただそこでも、エルサレム行きは自分の意志ではなく、聖霊の導きなのだと語ります。聖霊の働きを信じていたパウロは、将来を心配しませんでした。また、エルサレムでは投獄があることを示されていました。進めば死があることをパウロは知っていたのです。「聖霊は喜びを告げるだけではなく、苦難をも告げます。神の生ける聖霊は、苦難の中に、輝く力と喜びを、わたしたちに告げます。」[8] そこで、24節では、心配する人々を励ます意味でも、彼らに自分に定められた道、これを全うし、主イエスの福音を伝える任務を果たせるならば、何一つ悔いることはないと伝えました。普通の人間は自分の命が一番大切ですが、福音の証しができれば、自分の命さえ惜しくないとパウロは語りました。「二世紀には、この証するという言葉は殉教者の同義語として使用されるようにもなった。」[9] 行く先に待ち構えている投獄や虐待、そして処刑すら問題ではないというのです。こうした言葉が残されたからこそ、キリスト教会は数百年に及ぶ迫害を耐えることが出来たのでしょう。

25節では。将来の出来事に対する確信をパウロが人々に告げています。この意図は何でしょうか。自分が伝えた福音をしっかり保ち、未知の人々に伝えてほしいという、遺言のようなものでしょうか。けれども、26節には、流された血に関してパウロには責任がないと述べたと書いてあります。これは、「彼らが滅びるとしても、その罪責は自分にはないと証しし、清き良心をもって彼らと別れる」[10]ことを意味していました。彼らの将来を神の摂理として考えたことでしょう。

その後で語調が変わり、28節では今後の長老たちの役割に触れています。配慮する対象は信徒だけでなく、長老たち自身も自分に気を付けるべきなのです。また、教会に関しても特定の人々ではなく、全体を配慮し信仰を育成する事の大切さを訴えています。わたしたちはどうしても一部分しか見ないからでしょう。そして、28節の後半には聖霊による長老の任命というパウロの教会論が述べられています。「教会なくして信仰なし」ということでしょうか。それに教会は単に教会として存在するのではなく、主イエス・キリストの十字架の血によって贖われた神の群れなのです。「ルカの記述したものの中で、この言葉は十字架の教理に関する数少ない部分である。」[11] 贖いというのは、買い取られたという意味であって、自分の所有権はもはや自分にはなく、神の所有する存在に変わったという事です。エフェソ教会にも多くの人間的な問題があったと思いますが、それでもなお、パウロにとって教会は人為的なものではなく、贖われた「神の教会」でした。教会は、「牧師のものでも、役員のものでも、また教会員全体のものでもなく、神のものです。」[12] ですから、教会に「わたしの教会」考える人が出て来ると問題を生じるのです。むしろ「教会のためのわたし」と考えた方が健全です。わたしたちはこうした教会論をどのように受け止めているでしょうか。皆で話してみましょう。

パウロは、現場を去るにあたって、自分の将来だけではなく、エフェソ教会の困難な将来を予告します。29節にあることは、外部の迫害だけでなく、残忍な者が教会の群れに侵入し群れを破壊するというのです(黙示録2:1以下参照)。彼らの特徴は、「自分自身の影響力のために働き、教会員を自らに服従させようとすることである。」[13] また、こともあろうに、パウロはわざわざエフェソから会いに来てくれた長老たちに向かって、「あなた方の中からも異端者が出る」と語ったのです。この場面は、イエス様がイスカリオテのユダの裏切りを弟子たちの前で予告した場面を彷彿させます。パウロは人間の善意が悪意に変わる状況があることを熟知していました。「平穏無事な時は、主に仕えることはやさしいのですが、こうした敵に出会う時、いつの間にか、こちらも悪魔の虜にならざるを得ません。」[14] そこで、パウロは最初の言葉である、涙を流して伝道したということを繰り返します。それも、全員に一度にではなく、一人一人に丹念に教え、それも日夜の区別なくそうしてきたというのです。まさに福音の伝授です。一週間に一回礼拝に出ることは日本では随分努力のいることですが、パウロは三年間、それを日夜繰り返してきたと言うのです。それは一千日以上の接触であり、日本の礼拝時間を年間約70時間としても、171年分に匹敵するものです。このようにして、たった三年であっても、教理が着実に伝えられたことをわたしたちは見ることが出来ます。

そうした、訓示の後で、パウロはすべてを神と福音の言葉に委ねます。自分の警告は真実なものであっても、最終的に采配するのは神ご自身だとパウロは確信していました。ですから、どんな試練を目前にしても、ひるむ姿は見られません。御言葉に立つ信仰であり、今後パウロ不在の時にも、御言葉が彼等を養い育て教会を成長させるという確信が見られます。パウロは処刑されエフェソの長老たちも世を去ったのですが、この福音の言葉は確かに神の働きによって、時代を越えて現代まで伝えられています。

33節以下で、パウロは自分自身の弁明のために言葉を加えています。おそらく、パウロが去った時、パウロを批判する勢力が台頭し、人々を惑わし、信仰心すらパウロ批判の中に砕こうとするからでしょう。ですから、これはパウロ個人の弁明ではなく、福音宣教自体のアポロジー、つまり弁明なのです。第一にパウロは福音宣教の中で他人を利用したことはないと言います。パウロは貧しいエルサレム教会のために献金を集めていましたが、それは多額のものだったでしょう。それで私腹を肥やしたと批判する者がでないように、前もってパウロは「金銀衣服をむさぼったことはない」と明言します。「金銀衣服とは古代社会において地位を象徴する表現様式であった。」[15] そして、34節では、自分がテント作りの職人として、人に頼らず自活し、他者をも援助してきたと述べています。パウロはいつも与える姿勢をとってきました。それは、35節にあるように「受けるよりは与える方が幸いである」というイエス様の言葉に立つものでした。「パウロはイエスの御言葉の一つを、さらに自分の説教の結びの言葉として長老たちに思い起こさせる。この言葉は、福音書の中にはなく、ここでのみ保存されている。」[16] それは純粋な愛の教えでした。「たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。」(第一コリント13:2)与える姿勢を貫く時に、相手の態度に一喜一憂する態度から救われるのです。そして、与えることが苦にならないこと自体が神の恵みの証しなのです。

話が終わると、パウロは長老たちと一緒にひざまずいて祈ったと36節に書いてあります。普通、ユダヤ人は立って祈るのに、ここでは違います。「通常の祈りは立って行われたが、厳粛な場合には跪くのが慣習であった。」[17] 人々は、最後の時を惜しむかのように、パウロを抱きしめて接吻し別れを惜しみました。今生最後の別れの時でした。これこそ血肉を分けた神の教会の肉親の別れであり、天国での再会を誓った覚悟の告別だったのです。時代を経ても、なお感動を生む場面でした。それはまた、わたしたちが与えられた福音の方向性を示すものです。

[1]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、261頁

[2] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、264頁

[3] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、413頁

[4]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、262頁

[5]  前掲、F.ブルース「使徒言行録」、415頁

[6] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、299頁

[7]  L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、331頁

[8] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、287頁

[9] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、189頁

[10]  前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、262頁

[11] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、334頁

[12] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、287頁

[13] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、266頁

[14] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、286頁

[15]  前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、336頁

[16] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、268頁

[17]  前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、337頁

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