閑話休題

死についての考察5

最近、死んだ方がいいなと思うことがありました。それは、熱い日でした。炎天下で農作業していたのですが、畑は1000坪くらいありますし、雑草刈も容易ではありません。あまりの暑さと苦しさで、もしこの状態が長い間続くなら、生きているより死んだ方が楽になれるかなと思いました。幸いにも熱中症にはなりませんでしたが、家に帰ってから聖書を見ると、同じような気持ちを伝える記事がありました。それは、「ヨナ記」です。ヨナは神様がニネベの都市を滅ぼすことをやめたときに、それを不満に思いました。それでも都市の滅亡を見届けようと外に座りました。神様はそのかたわらに大きなトウゴマの木を生やし、ヨナがその日陰で過ごせるようにしました。ヨナは日陰に喜びました。ところが、翌日、神様は虫に命じてトウゴマの葉を食い荒らさせ、木を枯らしてしまったのです。それからヨナは、頭上からギラギラ照りつける太陽と、砂漠地帯から吹き付けるハムシーンという東風に苦しめられました。その時に、ヨナが語った言葉が、まさにわたしの気持ちと同じだったのです。「ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願っていった。『生きているよりも、死ぬ方がましです。』神はヨナに言われた。『おまえはトウゴマの木のことで怒るが、それは正しいことか。』中略 『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのトウゴマの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。』」(ヨナ書4章8節以下)ここで、わたしは一つの啓示を与えられました。ヨナとわたしに共通していたのは、灼熱地獄のなかで、目的がなかったことです。たとえば、現在は甲子園で高校野球が開催されていますが、球児たちの感じる暑さも半端なものではないでしょう。しかし、誰一人として、「生きているよりも、死ぬ方がましです」とは言わないでしょう。それは、彼らには、試合に勝って栄光を手にするという目的があるからです。そうなんです、どんな苦しさも、目的がある限り、死の方向にはいかないのです。前にも書いたことがありますが、自殺も他殺も表裏一体であって、別のものではありません。ここでも、生きる目的がないのです。そうなんです、人間は目的、あるいは希望によって生かされているのです。そして、それは、頭の中で構成されている一種のプログラミングだと思います。わたしたち一般のものは、高校野球の球児たちのようなプログラミングはもっていませんので、日陰などはまったくない炎天下のグランドでプレーすることは不可能です。そして、このプログラミングは、聖書の用語でいうなら、ロゴスだと思います。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」(ヨハネ福音書1章1節)ここに書かれている「言」あるいは「言葉」は、ギリシア語原典のロゴスの訳です。神とは、聖書によれば、至高のプログラミングだといえるでしょう。第二次世界大戦中に、ドイツ軍によって収容所で過酷な苦しみを受けたユダヤ人たちの多くが、「生きているよりも、死ぬ方がまし」のような環境の中で、死を選ばなかったのは、彼らが神を信じており、希望あるいは目的を失わないというプログラミングを保持していたからではないでしょうか。収容所の体験を書いたフランクルという人も、最後まで希望を持った人が生き残ったと証言しています。であるならば、わたしたちが現代という灼熱砂漠のような世界で必要なのは、聖書の伝えるロゴスであり、神であり、愛と希望のプログラミングではないでしょうか。その点では、印西インターネット教会の活動も、この殺伐とした世界で神のロゴスを伝え、多くの人が、死のプログラミングから命のプログラミングへと止揚される契機となれるかもしれません。

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