閑話休題

高校野球について思う事

今年の高校野球甲子園大会は、コロナにもかかわらず無事に開催されています。開会中止になった時の球児たちの無念さをどこかに秘めながら、選手たちは精一杯の熱闘を繰り広げています。わたしが若いころには、練習で鍛えられた彼らの面影が、年以上に堂々と見えた記憶があります。さすがに、いまとなっては若く未熟な青年たちが、汗と涙を流しながら奮闘している姿しか見えません。それにしても、彼らの姿は感動を呼び起こすものです。オリンピックなどもそうでしょうが、高校野球の場合には、オリンピックほど金銭的な意図が表面化しないところに好感度がもてます。ただここで、聖書の世界からスポーツというものを見てみましょう。旧約聖書の時代には、スポーツというものに価値が置かれていません。むしろ、人間の努力を称賛することには否定的だったといえるでしょう。一方、オリンピックの発祥の地である古代ギリシアの人々は、違った価値観を持っていました。人間が真理を追究すること。これはギリシア哲学として実を結びました。そして、善を求めること。スポーツにおいても最善を求めて競技したわけです。そして、最後は美です。古代ギリシアの美術作品のレベルの高さは、彼らが美を追求した結果でしょう。こうした「真善美」の追及の中で、オリンピックが生まれているのです。高校野球も同じく、選手たちに共通する「真善美」の姿がわたしたちに感動を与えてくれるのです。しかし、神学的に考えると、多くの場合に「真善美」は人間を称える機会となりやすいものです。そして、競争の中でトップに立ったものが栄光を与えられるのです。神学的には、残念なことに、人間に価値を与えるものは評価されません。一種の虚栄のように見なされます。イエス・キリストの弟子たちが、古代七不思議のひとつとも言われたエルサレムの大神殿に驚愕して賛美した時にも、イエス・キリストは冷静に対応し、人間の努力の結果であるものは崩れ去るものなのだと教えています。確かにわたしたちは、この地上の崩れ去るものや消え去るものに最大の価値をおいて一喜一憂しているわけです。聖書はそこにグッとくぎを刺しています。それは、人間を困らせるためではなく、人間を絶望から救うためです。人間は不可抗力的に、「真善美」の反対である、「偽悪醜」になりやすいものです。そして、自己を呪い、他者を呪いやすいものです。なぜなら、誰もが求めている「真善美」を手に入れることを失敗したからです。しかし、神の世界ではむしろ、「偽悪醜」に陥る人間の弱さの部分に注目しています。そこにこそ、神の絶対愛が働くからです。ここに人間愛と神の絶対愛の境界線が存在するのです。最後ですが、新約聖書ではパウロもスポーツの比喩を語っていて、興味あるものです。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピ信徒への手紙3章13節以下)これは、神の栄光ということです。これを映画化したのが「炎のランナー」という実話に基づいたドラマです。

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