今週の説教

人生に希望がない時に読む説教

「人生にサヨナラしたいときに」  マタイ18:1-14

今回の旧約の日課には「エレミヤの苦しみと神の支え」(エレミヤ書15章10節以下)という題がついています。預言者エレミヤにも希望がない時があったのですね。エレミヤは預言者であり、神を心から信じてはいたのですが、この地上で生きている限り悩みに押しつぶされるような時があったわけです。わたしたちならなおさらでしょう。彼ですら、自分が生まれなかった方が良かったと書いています。シェークスピアの作品とか、ギリシア神話にもこういう嘆きがでてきます。まして、今の世界各地で、コロナで家族を失い、仕事を失った人々の嘆きはどれほどのものでしょうか。生まれなかった方が苦しまなくてよかった、と思うのももっともです。

でも本当にそうでしょうか。わたしたちが避けようとしている「問題」、あるいは苦しめている「問題」は本当に人生の究極的な問題なのでしょうか。エレミヤの場合には、悩みの果てに、神の言葉を食べて元気がでました。そして「わたしはあなたと共にいてあなたを救い出す」という神の言葉を聞くことができました。それが本当に生きる糧となったわけです。悩みが深く、人生にサヨナラしたい気持ちにならなければ、なかなか生涯の暗底である存在の岩盤には達しないものです。どんなに華やかに見え、他者がうらやむような生活でも、暗底である岩盤に達していなければ表面は流れ去る砂山です。「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。」(方丈記)、と昔の人もこの現実を見抜いていたのです。

しかし、もし、この底の底にある動かしがたい暗黒に達したとしたら、それは、弁証法的に考えても、恵みへのバネでもあるのです。原罪によって神との関係を遮断され、この世の被造物につかのまの支えと慰めを求め、流浪人のような生き方をしてきたわたしたち人間が、永遠の岩によって支えられるという体験こそ、神の玄義(ミステリオン)なのです。(田辺哲学による主観的自由から客観的自由に至らせる絶対否定の論理を参照)

人生のどんな決断にも神の与える自由があります。死ぬのも自由です。他者を憎んで殺すことも、神は止めません。ただ、大切なのは、人生のどんな場面でも、被造世界の愛憎や利害の混沌の彼方に、「わたしはあなたと共にいてあなたを救い出す」という神の絶対愛の言葉を聞くことではないでしょうか。わたし自身は、若いころには共産主義者でしたが、この絶対愛によって救われました。そうでなければ、自滅的な方向に走っていたと思います。

冷静に考えてみると、本当に人生にサヨナラしたいという切なる思いがあっても、それは主観にすぎません。一方、客観とは自他ともに認めざるを得ない事実のことです。田辺氏が唱えた「主観的自由から客観的自由に至らせる絶対否定」の意味はここにあるわけです。ただ、絶対否定とは何でしょうか。キリスト教神学では、それは十字架であり、死を経過した再生のことです。わたしたちを愛して下さる神は絶対愛を持つ絶対他者であり、被造物とは違います。一時的な慰めや、表面的な忖度とは無縁です。神は、根底のまた根底なのです。絶対零度のようなものです。そして、聖書の記者たちが異口同音に唱えていることは、創造主たる神に出会うことが客観的な自由への道となるということです。これも神の玄義といえるでしょう。この印西インターネット教会を開設している目的は、表面的であり人間的な価値観が主流となっている日本文化の中で、一人でも多くの方に、この神の絶対愛の玄義を知っていただきたい、ということです。

さて、パウロも困難を経験した人でした。パウロ書簡には困難の記述が非常に多いと思います。しかし、同時に、パウロの心はなんと明るく喜びに満ちていることでしょうか。そのパウロ自身がこう書いているのです。「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」エレミヤにしてもパウロにしても、彼らが人生の迷いと痛みを、暗底に至るまで経験したがゆえに、その言葉は真実であり自由に満ちているのです。わたしはそう信じています。

今日の福音書の個所は3つの部分にわかれています。第一番目は、弟子たちが「誰が天国で一番偉いのでしょうか」とイエス様に尋ねたことに関するものです。弟子たちの言葉の裏には、「わたしたちは既に救われているし、当然、天の御国に入れてもらっている」という彼らの気持ちが隠されていると考えてよいでしょう。物事を当然だと思っているから、玄義に達する前のエレミヤのように「なぜ、わたしの痛みはやむことなく、わたしの傷は重くて、いえないのですか」と迷うことになります。でも、神はそのような迷いさえ受け止めてくださる方です。神はエレミヤに「軽率に言葉を吐いてはいけない」と諭しました。だから、人生の当然という主観を捨てると、迷いが消え、客観的な感謝がでてきます。不思議です。イエス様が教えた幼子の様になることは、まさに上からの目線をやめ、幼子の様に偏見なく、新しい発見の目、つまり客観的にすべてを見ることではないでしょうか。これが、現代の主観的な諸宗教と伝統的な宗教との違いです。

では幼子とは誰でしょうか。デンマークの童話作家アンデルセンの「裸の王様」という話が、幼子とは誰かという設問への一つの答えを与えています。透明な衣服を着ていると思い込んだ王様に、忖度(つまり主観性)に満ちた大人たちは何も言うことが出来ず、幼子だけが、「王様は裸だよ!」と叫んだという話です。

アンデルセンはその自叙伝の最後にこう書いています。「私の今までの生涯に晴れた日も曇った日もあった。けれども、すべてはけっきょく私のためになったのである。いわば、一定の目的地へ向かう海の旅のように、舵を取り進路を選ぶのは私自身である。私は私の義務をつくす。しかし、海を支配して暴風をおこし船をあらぬかたへ向けるのは、神の意思である。もしそうなっても、それはそれでまた、私にとっては一ばんよいことなのである。神となれば、私の胸は常に神を信ずる念にみち、私の心はいつもこの信仰によって幸福だからである。」

彼は貧しい靴屋の息子でした。一家は一つの部屋に寝起きしていました。11歳で父親が死に、その後オペラやバレーをやったのですが、すべて失敗しました。金持ちの援助で大学に行けたのですが、悲惨な結果で卒業はできなかったのです。失敗の連続というのは、まさにエレミヤと同じでした。

それにもかかわらず、アンデルセンは幸福であり自由でした。彼は迷わなかった人ではなく、迷いの中で、迷いのどん底まで達し、暗底まで沈むという絶対否定のさなかで、神の絶対愛を知り、迷わない客観的信仰と揺るぎない自由を与えられたからです。

そこで、福音書の第二の話に移りましょう。これは罪の誘惑の話です。ここにも大きな迷いが生じます。例えば、神を信じている者が大きな罪を犯してしまったらどうでしょうか。あるいは自分の良心が痛むような過失を犯したらどうでしょうか。それまでの明るく朗らかだった生活は消えて、暗く厳しい日が続くでしょう。日本のクリスチャンの中には、そういう人も見かけます。ルターも最初はそうでした。自分で自分が赦せなかったのです。また、神が自分を赦しているとは思えなかったのです。ところが福音の玄義を知ったルターは「信仰とは、ある人たちが信仰だと考えているような、人間的な妄想や夢ではない」、自分が自分で自分は正しいとか、決定的な過ちを犯したとか考えていること自体が「人間的な妄想」なのだ、つまり「主観性」なのだとわかったのです。信仰心の中に巣くう人間的主観性の誤りを把握した瞬間です。

また、周囲の人々があなたは良い人だとか、あなたは人間以下の畜生だと言ったとしても、それもまた「人間的な妄想」であり「人間的主観性」なのです。妄想ではない真実、信仰の客観性とは、イエス・キリストの十字架の贖い以外に解決はないという事です。イエス様は話の中で用いられた「つまずかせる」とは、ギリシア語で「スカンダロン」であり、今の言葉で「スキャンダル」の語源です。そのもともとの意味は、罠にかけるとか、人を陥れるという意味です。しかし聖書の中で用いられる場合、「信仰が妨げられる」という意味で使われます。信じているという主観性に頼っても、一向に、神の玄義(ミステリオン)に達していない姿です。日本のクリスチャンにもこの主観性のレベルの人が少なくないでしょう。つまり、宗教改革以前の信仰形態です。ですから、イエス様はこの世的な価値判断や主観を教会に持ち込んでくるものは、裁かれるよと、注意されたのです。いや、既に裁かれているからこそ本人は苦しいのです。

ただ、心配には及びません。それはまさに聖霊に満たされ、新生する前の弟子たちの姿でもありました。ペトロの場合には、聖霊降臨以後でも、ユダヤ人たちの意見を恐れて割礼のない者たちと食事をしなくなり、パウロから「見せかけの行いに引きずりこまれた」(ガラテヤ2:13)と批判されています。しかし、神はそうした人間的なペトロをも正しい信仰に導いています。要するに、迷いというものは「人間的な妄想」や「神の絶対愛を根底としていない主観性」から生まれてくるのです。逆に、この世の価値判断からみたら、失格した者も、再出発させたいと神は願っておられるのです。そこにこそ、神の絶対愛があるわけです。失敗しても、失敗しても、神は見捨てません。

自分の弱さの根底で神に出会うのです。これは優れた数学者であり、宗教哲学者であったパスカルも言っています。パスカルの研究家であった森有正は「人は恥ずかしくて他人には言えないような自分の欠点を通してしか神に出会うことはできない」と書いています。人生の底の底、絶対否定の体験があったり、コロナなどの疫病や、あるいは地球破壊のような自然災害がそれを招いたとしても、それはそれでいいのです。「こんな弱い自分でも大丈夫なのだ」、という絶対的客観的受容を体験させるのが神の玄義(ミステリオン)だからです。理解できる人は、すでに理解されていると思いますが、ここで人生の重心は「自分」から「神とその絶対愛」に移行しているのです。それが、第三番目にある「迷い出た羊」と関係します。羊は弱さの象徴です。実際に、人類に長く飼いならされた羊は、他の動物とは違って、自己防衛能力を失い、自分自身で生きていく力を失った無力な存在です。聖書は、原罪に落ち込んだ人類を羊にたとえています。その羊の救いのために、まずイエス様ご自身が一番低い暗底に降り下ってくださったのです。イエス様は幼子の事を弟子たちに教えるだけでなく、自らも幼子の姿を保持していた方です。主の祈りの中で、神に対して「アバ、お父ちゃん」と呼びかけて祈るように教えた方だったからです。当時のユダヤ人たちは「アドナイ・エロヒーム」(主なる神よ)と祈っていました。先に述べたアンデルセンも、裸の王様が裸であることを宣言する純粋な幼子の姿にイエス様の姿を重ねていたのかもしれません。人間は失われた者である。人間は迷う者である。人間は飼い主のいない羊のような弱い者である。だから、自分では自分を救えない裸の王様なのだ。けれども、絶対愛の神は人間を決して見捨てない。あたかも、愛情深い羊飼いが、迷い出たたった一匹の羊を捜して山を越え、野を越えていくように、神は愛する者を救おうとしてくださっているとイエス様は教えました。今は苦しいでしょう。しかし、それは、やがて来るべき救いの喜びのための前奏曲に過ぎない。それを、エレミヤは悩みの中で悟りました。ダビデ王も同じでした。詩編23篇を読めばわかります。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたが共にいてくださる。」(詩編23編1節以下)わたしたちも永遠の大牧者であるイエス・キリストに守られ、その犠牲の血によって、人生の最も暗く苦しい暗底(それは死かもしれない)で清められています。これからも、人生にサヨナラしたい場面、主観性が強圧を加える場合があるでしょう。しかし、もはや、それらのどんな試練もわたしたちを悩ませることができません。主が共にいてくださるという客観性を身に帯びているからです。その絶対的普遍的客観性に開眼することがキリストの玄義(ミステリオン)です。「人生にサヨナラしたいときに」わたしたちは「人生に笑顔で挨拶」できるでしょう。長い説教でしたが、ここまで読んでくださった方に、神の絶対愛が宿りますように祈ります。

-今週の説教