閑話休題

聖書の誤訳(?)を検証する

久しぶりに英字新聞を読んでいたら、HUBRIS(傲慢、不遜の意味)というギリシア語語源の言葉に出会いました。手元のギリシア語辞典を見てみると、まさにその言葉は新約聖書にも用いられていて、神を神とも思わない不遜な態度のことを示していました。そして、新約聖書のテモテ第一の手紙1章13節にその言葉は用いられていました。ところが、新共同訳聖書を見ると、このパウロの独白の言葉は、「以前、わたしは(中略)暴力を振るう者でした」となっているのです。確かに、HUBRISのギリシア語語源には「暴力」という意味も含まれています。それにしても、この個所を「暴力」と翻訳してしまった専門家の神学のレベルの低さに驚嘆しました。わたしなどはギリシア語の専門家ではなく、英語を教えているだけの知識しか持っていませんが、それでも、語学には共通点があります。そして、英語の多くの単語の語源はラテン語やギリシア語です。だから言葉の意味にはこだわるのです。そして、キリスト教は言葉の意味にたいして厳格な姿勢を貫いてきた宗教であり、フィリオークエ論争などにみられるように、翻訳の厳密性を追求してきた過去の歴史があります。パウロがテモテに伝えたかったのは、単なる暴力ではなく、神を軽視する不遜な態度だったと思うのです。これを、暴力という物理的な次元に落とし込めて翻訳してしまった人の神に対する「不遜な態度」を直観するのはわたしだけでしょうか。ちなみに、これは新共同訳の中での翻訳箇所ですが、以前の口語訳聖書ではどうでしょうか。ここでは「不遜な者であった」と正確に訳されています。どうしてこれが、「暴力」と誤訳されてしまったのでしょうか。一つ考えられるのは、意訳(原典に忠実ではなく恣意的な翻訳)で知られている新改訳聖書では、やはり「暴力をふるう者でした」となっています。これの影響を受けた人が翻訳したのではないでしょうか。では、きわめて原典に忠実であると知られている永井訳の聖書ではどうでしょうか。「また侮る者なりしが」と正確に訳されています。さて、これは日本国内の翻訳事情のことですが、海外に目を向けてみましょう。アメリカで長い間定番として用いられてきたRSV訳聖書では、「INSULTED」(侮辱した)となっています。これは、勿論、暴力ではなく不遜な態度のことです。さらに、アメリカでは一般的に意訳の翻訳として知られているグッドニュース・バイブルではどうでしょうか。ここでも「INSULTED」と訳されています。では、さらに外国の聖書翻訳の場合を見てみましょう。ドイツはどうでしょうか。宗教改革の伝統のある国ですから神学的レベルは低くないと思います。ドイツ語訳聖書では「VERHÖHNT」と訳されていて、これは、「あざける、嘲笑する、侮辱する」などの意味です。同じく、宗教改革が北方に伝播したフィンランドではどうでしょうか。フィンランド語聖書には、「VÄKIVALLENTEKIJÄ」となっていて、これは「違反者」という意味です。言語とは乖離していると思いますが、それでも暴力の意味はありません。カトリックの国であるフランスはどうでしょうか。フランス語聖書にはラテン語語源の「INSOLENT」となっていて、英語の「INSULTED」と同義です。最後に、漢字の本家本元の中国語訳聖書はどうでしょうか。それには「侮慢人的」となっています。「侮慢」とは、やはり、「あざける、嘲笑する、侮辱する」などの意味ですが、そこに「人的」と添加してしまい、人間に対する侮辱のレベルに限定してしまったところが神学レベルの未熟さを感じさせます。パウロは、過去の自分が神を侮辱する者だったと述べているのですから、原典に忠実に訳すことが大切だと思います。新共同訳にしても、その翻訳は各箇所ごとに分担されて訳出されているので、訳者の力量によって質の差があります。口語訳聖書の新約聖書部分が翻訳されたのが1954年であり、戦後すぐのことなのですが、全体の翻訳をチェックする監修者の能力と努力が抜群に抜きんでており、今回のような、素人のわたしが見てもわかるような誤訳はみあたりません。キリスト教の衰退は、単なる教勢の減少にとどまらず、聖書という根幹の理解がおろそかにされてきていると思わずにはいられません。16世紀の宗教改革も、義認論に関して、当時のカトリック教会が聖書の教えと乖離した免罪符などの販売に奔走していたことから始まりました。現代のキリスト教においても、素晴らしい信仰の伝承がなされていないのが残念です。前にも書きましたが、教会会議なども、政治論議や予算配分論争、さらには低次元の主導権争いになってしまい、聖書の教える救いを現代の社会でどのように伝えていくかについては無関心になっているのが現状です。それこそ神に対する、HUBRIS(傲慢、不遜の意味)ではないでしょうか。

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