今週の説教

同時多発テロから21年目の夏の終わりに神の福音を学ぶ読む説教

「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」  マルコ7:24-30

同時多発テロがニューヨークで起こってから早くも21年になります。あの時に生まれた子供も、大学生ならば3年生になっているはずです。時の経過を感じます。蝉は短くても3年長いものは17年地中にいて、ほんの数週間地上で鳴いて、夏の終わりには死に絶えます。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」これを詠んだ小林一茶は、蝉のはかない命に自分の人生を投影してみたのでしょうか。季節も季節ですし、夏の終わりに人生の終局を考えるのも無駄なことではないでしょう。わたしたちも、長いようで、実は短い人生を生きているのではないでしょうか。

しかし、長いようで短く、苦しみに満ちた暗黒の時間の旅の果てに、絶対愛の神は、神を信じる者に対して悲しみを喜びに変えてくださいます。夏の終わりの蝉の死をみて感じるような人生の空しさを覚える時に、神はその彼方に恵みを示してくださいます。例えば、旧約聖書の出エジプト記にある、砂漠の中での40年に及ぶ苦難の旅がそうでした。

イエス様は、人生の暗い谷間をさまようような人々、蝉の暗い地中での生活のような日々を送る社会の底辺にいる人々に伝道していたようです。福音書では、汚れた霊に取りつかれた人、悪霊に取りつかれた人、病人、らい病人、中風で体が麻痺した人、手が動かない人、墓場を住まいとした人、12年間も婦人病で出血が止まらない人、耳も聞こえない人、目の見えない人、夫が死んで生活できなくなった女の人、姦通の罪を犯した女、収税人、罪人、犯罪者など、イエス様が助けた、暗闇の生活で苦しんでいた人々の例は数限りありません。わたしたちはどうでしょうか。日の当たる坂道を散歩する人々でしょうか。少なくとも、わたし自身はそうではありませんでした。

でもなぜ、イエス様はオリンピックで金メダルを勝ち取るような努力家や、健全な魂の人ではなく、地中の蝉のように日の当たらない社会の底辺ともいえる立場にあった人々と交わり、神の福音を伝えたのでしょうか。最近問題になっている、旧統一教会などは金銭が目的ですから、底辺の人は無視するでしょう。

聖書を見てみましょう。最初に、イザヤ書です。35章2節に、「人々は主の栄光と神の輝きを見る」と書いてあります。これは、頑張りなさい、という励ましではありません。聖書は人間自身の努力に重点をおきません。努力できることすらも神の援助があってのことです。これはペトロが考えたことと同じであるとおもいます。「今しばらく試練に悩まなくてはならないが、その試練によって精錬され、金より尊いものとなる」(第一ペトロ1:7)、とペトロは書いています。誰もが嫌う人生の荒地、あるいは蝉の地中生活とは逆説的に、そこにこそ命を育む神の栄光があるとペトロは悟ったのです。そしてそれは、イエス様は底辺にある人々に福音を伝えたのと同じ原理です。つまり、ペトロは聖霊降臨後には、イエス様の伝道の原点を理解していたのです。これが福音です。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」一見すると、この句には望みがありません。しかし、地べたで羽をばたばたさせて、極端に短い生涯の終焉を迎えている蝉を、優しく見つめている作者のまなざしがあるのです。それはあたかも、わたしたちを慰める神の絶対愛の世界であるかのようです。あるいは、神の御一人子イエス・キリストの十字架の死を静かに見つめた神の眼差しであるかのようです。希望がないようなところに、本当の希望が隠されているというのが聖書の語る不思議な世界です。それは既に神の福音の領域です。

その福音のために、イエス様と弟子たちは故郷のナザレからは何日も歩かなければ辿りつけない地中海沿岸の港町、ティルスにまで来ていました。ティルスはイエス様の時代の何百年も前に栄えた大都市でした。この港町は有名なレバノン杉の輸出,貝からとる高価な紫染料の生産などが有名で、神殿や大邸宅などがあり、道路は石で舗装されていました。ティルスは最早ユダヤ人の領地ではありませんでしたが、当時のほとんどすべての大都市にはユダヤ人が散在していましたから、そうした人々に、イエス様は聖書を通して神の存在と神の栄光を伝えようとしたのです。

しかし、そこで出会った母親は当初目的としていたユダヤ人ではなく、ギリシア系でした。そして、そのことはイエス様にとって、彼女が律法で接することを禁じられている異邦人だったということです。ですから、ここでは、最初の目的のユダヤ人のための神の栄光を示す奇跡ではなく、ユダヤ人には禁じられていた異邦人との接触をイエス様がどのように行ったかが記載されているわけです。最初、女の願いに対してイエス様はなにも答えなかったと書かれています。そして、女があまりにも願うものですから、「子供たちのパンをとって子犬にあげてはならない」といいました。つまり、イエス様はユダヤ人のための伝道に来たので、女の願いは断ったのです。この女に聖霊に満たされた信仰心というものがなかったなら、そこで話は終わっていたことでしょう。

ところが、この異邦人の母親は、イエス様という人が、異邦人の救い主でもあることをかたく信じていました。だから「主よ」と言ったのです。おそらく、イエス様が、神の愛は万民に平等に与えられていると教えておらえたことを伝え聞いていたのでしょう。実際にイエス様は、「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)と教えました。悪人をも愛してくださっているということは、神の絶対愛に差別はないということです。それはどんな悪人でも、人間環境の産物であり、悪魔の支配下に置かれた犠牲者であることを神は知っているからでしょう。例えば、犯罪者の生い立ちを調べてみると、そのことはよくわかります。そこには、ネグレクト、家庭内暴力、いじめ、障害などの不幸な過去があるわけです。犯罪者は、犯罪や暴力の犠牲者でもあるのです。犯罪だけではありません、人間の悪い習慣というものも、遺伝的なもの、環境的なものが大きく影響しています。そんな人間の置かれた状況を熟知しておられる神はすべての人を憐み、愛しておられるのです。しかし、これを知らない人々は実に多くいます。最近、渋谷で見知らぬ親子を刺傷した女子中学生は、逮捕後の取り調べで、自分は事件を起こして死刑になりたかったと言ったそうです。彼女もまた不幸な悲しみの子であるわけです。この中学生が神の絶対愛を知っていたら、こんなことにはならなかっただろうなと思います。現代社会で十分に福音が伝えられていないことを、わたしたちは反省しなければなりません。

さて、聖書の中の女性は神の愛を信じ、子供が癒されるために、必死でイエス様に願いました。変えられないものを変えて欲しいと願ったのです。それも非常に謙虚な姿勢でした。だいたい、イエス様が語った「小犬」という表現は相手を人間と見ていない、軽蔑した言い方です。イエス様はユダヤ人でしたから、ユダヤ人が普通に考えていた異邦人観を述べたのにすぎません。まず、母親は、イエス様から、これはユダヤ人伝道であって異邦人は考えていないと言われ、「主よ、お言葉通りです」(口語訳)と答えました。新共同訳の「しかし」という否定語は原語には記載されておらず、実際は「そして」になっています。これはまさに従順な態度です。神様の命じられることに対する従順な気持ちです。彼女は失礼な言い方に対して怒りませんでした。むしろ服従によって神の否定を肯定としたのです。

これとは反対に、神を脅かしている信者もいると、ある牧師が書いています。自分の願いをかなえてくれないならば、もう教会に来るのはやめますとか、一応出席はするけど献金はしません、などという態度で、牧師に圧力を加え、実際は神の御心に逆らう結果となってしまうのです。

一方、イエス様の前にひれ伏した母親は、従順であり謙虚でした。そして、イエス様が子犬の喩えを語った時も、それを面と向かって否定しませんでした。ルターはこの例話が好きだったそうです。何故ならば、信仰とは「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」のを見ることだからです。ルターはそれを経験的に知っていたわけですね。

この母親はイエス様の愛を信じ、「パンくずでもいただけないでしょうか」と何度も迫りました。これはまさに、イエス様が教えた信仰の姿勢でした。イエス様の譬えで、ルカ11:5以下、真夜中の訪問者の例があります。客が長旅を終えて着いたのですが、家では食料を切らしています。空腹で寝かせるわけにはいきません。そこで隣の家に行って、どうか食べ物を貸してくださいと言います。答えは、「面倒をかけないでください。子供も寝ているので騒がせないでください。」ここで、普通なら対話は終わるでしょう。しかし、イエス様は教えました。続けなさい。食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。「面倒をかけないでください。」食べ物を貸してください。何度も繰り返されると、どうでしょうか。わかった、わかった、貸しましょう。いや、本当にあなたの熱心さに負けました。まさに、「否定的な言葉の裏に肯定の言葉が隠されている」ということです。ですから、わたしたちにできることは、地べたにあおむけになって蝉のようにミンミン鳴き続けることではないでしょうか。神に求め続けることです。神は虫をも無視しません。求めよ、さらば与えられん。これが、イエス様の教えた信仰の中心です。それは、イエス様ご自身の生き方でありました。

わたしたちにもイエス様の前に跪き、謙虚に求め続ける信仰さえあれば十分です。「仰のけに落ちて泣きけり秋の蝉」蝉の地中での17年間の沈黙のあとで神は栄光を示してくださいます。喜びを与えてくださいます。もしかしたら、夏の終わりに落ちても鳴くセミも、実は、悲しみの声ではなく、最後の賛美の声を上げているのかもしれません。「否定的な状況の裏に神の絶対肯定が隠されている」からです。わたしたちも、戦争や、悪政、テロや犯罪、疫病や苦しみの多い世が続いても、希望を失わず、最後の最後まで謙虚に救いを求め続けたいものです。悲しみが喜びに変わる日を神は必ず与えて下さるはずです!!

 

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