「いや」で話始める人の気持ちは否定ではなく感嘆だった
最近、会話の中の「いや」という接頭語みたいな表現が話題になっています。これは、東北地方を中心とした方言の一種で、否定的なものではなく、話し手本人の感嘆詞的な気持ちの表現の一種だそうです。そしてそれは、話相手と気持ちを共有する道具のようなものでもあるそうです。以前のドラマ「あまちゃん」の「じぇじぇじぇ」のようなものです。わたし自身は埼玉県の出身ですが、こうした表現は、自分でも気にしないで使っていたことがわかりました。「いや」というふうに短くは発音することは稀ですが、「いや~!」すごく暑いね、とか言って気持ちを表現することはあります。自分としては、この「いや」の意味は、ある程度の否定が含まれており、この一例について考えるならば、「普通ならば今の季節はこんなに暑くない筈だが、いやはや、こんなに暑くてまいったよ」という意味なのです。ですから、同じ感嘆詞でも、単なる感動ではなく、常識が暗に否定されているので「いや」とか「いやはや」になってしまうわけです。この指摘によって、「いや」だけでなく、自分は「でも」とか「だけど」で会話をはじめることも多いなと気付かされました。これも無意識なものですが、「いや」と同じように多用されています(笑)。それでは、新約聖書ではどうでしょうか。新約聖書にはパウロの書簡が数多く編纂されていますが、その中で同じような表現はみられるでしょうか。まず、ギリシア語で「いに相当するのは「ALLA」という単語です。この「ALLA」の用法をギリシア語辞典で調べてみると、「しかし」という意味のほかに、「ALLA」は前述された部分から、話題を転換するときに用いられると書かれています。その一例は、ローマ信徒への手紙8章37節です。この部分は、新共同訳聖書では「しかし」と訳されています。しかし、原典に正確な永井個人訳聖書では、「されど」と訳出されています。これが、わたしの考えでは、実にいい日本語なのですね。単なる否定ではありません。「Aということはまさに事実だけれども、Bという事実も否定できない」ということなのです。この点で、キリスト教神学においては少しレベルが低いかなと思っていた中国語訳聖書では、「しかし」の意味である「但是」や「不過」ではなく、「然而」(しかるに)という表現が用いられており、自分の偏見を反省させられました。やはり、中国人でも知識のある人は神学的レベルも高いのです。それにしても、このローマ信徒への手紙8章37節は、ルターも彼のローマ書註解で「神の選び」という重要な神学概念に関係する部分として詳しく説明しています。ですから、この「ALLA」(αλλα、発音はアラ)というギリシア語の用法には、最後の審判で処罰されるべき罪ある人類に驚くべき神の選びが与えられたという、「感嘆詞的な気持ち」があらわされているのです。パウロにとって、それは驚きなしには語りえない神の御恩寵だったわけです。これを日本のZ世代の言葉に翻訳するならば「じぇじぇじぇ、いやいや、神の救いはチョー、スゴッ!!」となるかも知れません(笑)。それはともかく、神学的に見ても、パウロの気持ちは否定ではなく感嘆だったと思います。これからも日本語の会話の中で、感動を共有する「いや」が用いられることを祈ります。