今週の説教

先の者が後になり、後の者が先になることの本当の意味を学ぶ説教

「権威への侮り」      マタイ21:33-44

さて、今回のイエス様のたとえ話は葡萄園での出来事についてです。この話の中に登場する地主は、神様ご自身のことを比喩していると考えていいでしょう。他方で、農夫は当時のユダヤ人たちを示しているものと思われます。イエス様が神の国を語る時に、ユダヤ人問題を中心にしていたこと、つまり宗教的に熱心な人々の問題性を見抜いていたことがわかります。旧統一教会などのカルト問題も、熱狂的な宗教性が持つ人間の罪の問題を現しています。ですから、これは単なる楽園の話ではなく、社会を分断し、神を尊敬していると言いながら、実は権威を侮り、神を神とも思わない人々の事を指摘したのです。また、支払いの時も、収穫の時と同じく、メシアの到来を意味しています。そして殺されてしまう地主の息子はイエス・キリストを示しています。特に、神の国が、本来はユダヤ人に特別に与えられるものだと考えられていたのに、異邦人に移されるという、後の者が先になるという論理が、マタイの福音書が強調したい点です。あの、「後先の問題」は、順番の問題ではなく、「神の選び」という極めて神学的な視点の大転換を意味していたわけです。

ここで余談になりますが、神の選びの大転換のことを、現代史に投影してみましょう。その実例はロシアのウクライナ侵略です。1917年のロシア革命からすでに100年以上経過しています。当時の社会で、人民を支配していたツアーであるロシア皇帝を斃して民衆の国家を建設するということは革新的なことでした。人民による人民のための国家ということです。その意味では、新時代のために選ばれし国家だったわけです。そして、その人民国家はナチスのロシア侵略をも阻止しました。しかし、その反面で、人民のためのはずだった国家は、まるで新しいツアーのように権力を集中し、政府のための人民で構成される国家を作ってしまったのです。旧ソ連もそうですし、現在のプーチン戦争も、人民を犠牲にしています。これも、「神の選び」という神学的な視点の大転換を意味してはいないでしょうか。

さて、話は変わりますが、こうした現在のわたしたちの目の前にイエス様が到来したらどうでしょうか。マザー・テレサまだ存命中の1979年に、ノーベル平和賞を受賞した際のスピーチで、「貧しい人々の中にすでにイエス様はいると」言いました。そして痛みを覚えるくらいにイエス様を愛して、捧げる姿勢を持つことが大切だと語りました。それは彼女自身の生き方でもあったと思います。そして彼女は、一つの実例を語りました。

ある時、彼女はインドのある男性から、貧しい人々のためにという15ドルを受け取りました。この男性は、体が20年間マヒしていて、片手しか使えず、タバコだけが唯一の慰めであり、友達でした。このタバコを1週間やめて、その吸わないでためたお金ですとマザー・テレサに渡しました。マザー・テレサは考えました。このことは、この人にとって大変な犠牲だったに違いない。そして、このお金で、パンを買い飢えている人々に与えました。そして、体のマヒした人は与えることに喜びを感じ、飢えた人々はパンを受け取る時に喜びを感じたのですと、マザー・テレサは言いました。他の人と愛を分け合う機会は神様からの贈り物ですとも言いました。わたしも確かにそうだと思います。イエス様ご自身が貧しい者、裸の、家なしの、病気の、囚われの、望まれない人になったからです。しかし、聖書を読むと、この目の前に来たイエス様をユダヤ人たちは十字架にかけてしまったのです。

旧約聖書のイザヤ書5章にも、やはりブドウ畑の例があります。ブドウ園の持ち主は、良い土地に良い葡萄の木を植え、よく手入れをしました。このブドウ園の話では、すべての条件がそろっていて、もう収穫は約束されたようなものです。良い土地、良い苗、良い手入れ。何も欠けるものがないわけです。ですから、大きな収穫に備えて、それを守るための見張りの塔も建てました。日本では収穫物の警戒はあまりしませんでした。ただ昨今は、農作物の盗難も頻繁に発生しています。見張りが必要なわけです。これは2千年以上前のイスラエルでは常識でした。

ところが残念ながら、酸っぱい葡萄しかできませんでした。その結果は流血と阿鼻叫喚だと書かれています。これは、善いブドウの木であるべき神に選ばれたユダヤ人の中によい信仰の実が結ばなかったという意味です。現代のロシアも同じです。結果は流血と阿鼻叫喚であるはずです。

新約聖書を見ると、パウロは、信仰の実の例話の第一項に、愛を持ってきています。第一コリント13章でも、愛を第一にしています。これが、パウロ自身がユダヤ教徒であった時の失敗を反省した結果だとわかります。聖書には神は愛なりと書いてありますが、その神を信じていると言いながら、愛を忘れてしまうのが失敗です。マザー・テレサが言ったように、目の前に貧しい者、裸の、家なしの、病気の、囚われの、望まれない人がいるのに無視していたら、神の愛は実現しません。

ですから、誰からも望まれず、雇ってもらえず、夕方までたち尽くしていた人々が神に支えられて等分の恵みを受けること、神は善い者も悪い者も同じように愛しておられることを知ることが、ユダヤ人に課せられた課題だと、イエス様は示したのです。

ユダヤ人の場合、形式的な信仰の伝承はあった訳です。外側はつやつやした葡萄のようでした。しかし、信仰の中身が酸っぱくて、愛と赦しがありませんでした。このような状況の中で、神の国は、正しいユダヤ人ではなく、正しくない者、遅れて雇われた人、つまり罪人に移行しました。マザー・テレサは、そういう不利な立場で、社会的に圧迫されている人々の中にイエス様は生きておられると教えました。そして、イエス様は、ブドウ園を自分のものにしようとするユダヤ人、つまり権威を侮り神の国を自分たちのものとしようとする農夫たち、に殺され、まさに捨てられた「隅の親石」となられたのです。その結果、ユダヤ人たちは見捨てられることになりました。

イエス様は、例え話で、当時のユダヤ人のリーダーたちが、御言葉の権威を大切にしなかったこと。神を信じていると言いながら、聖書の教えに従って愛を行っていなかったことを咎めています。神の平等な愛を信じないで、労働至上主義、道徳至上主義、宗教的行事至上主義に陥り、罪人を赦す神の愛を忘れたからです。つまり、自分たちも赦された人間にすぎず、多額の負債を赦された者だったことを忘れたからです。聖書の愛は感情の愛ではありません。真実の愛は、この赦しに対する感謝から生まれます。まさに農夫たちが酸っぱい葡萄が象徴しているのは、農夫たちであり、神に選ばれ神に仕えるべき者たちのことでした。彼らは主人である神に仕えるしもべの立場だったのに、最高権威である神を無視して、自分たちの主義主張を第一にしたのです。それが、古今東西にわたる宗教者の実態だということです。

また、愛を裏切られ、憎しみに変えられた神の痛み、イエス様の痛みはどれほどだったでしょうか。さて、ある学者はこの点を現代に問題に敷衍してこう述べています。「『これは私の教会だ』という表現は、所有権は我々のものだということにしてしまう。」神のブドウ園ではなく、わたしのブドウ園だというのと同じです。これは勿論、イエス様が望んでいないことです。イエス様が望むのは愛と赦しです。

わたしたちは、マザー・テレサのように、この愛を知り、この愛を信じ、喜んで神の僕として、愛の神の権威に従いたいものです。マザー・テレサが、ある時、訪問に来た大学の教授たちから生活に役立つことを教えてくださいと聞かれました。マザー・テレサは、お互いに微笑んでください、家庭では互いのために時間をとって話し合い、常に微笑んでください、愛のしるしは微笑みですと言いました。教授たちは、マザー・テレサに、あなたは結婚したことがあるのですか、結婚したことがないから、お分かりになっていないのですと言いました。するとマザー・テレサは、イエス様と結婚していますといいました。そして、時にはイエス様が手に余ることを任せられると微笑むのが難しく感じられることがあるのですと説明しました。

聖書の教えを信じ神の愛を忘れずに。周囲の人への愛を忘れずに生活したいものです。ユダヤ人のようにつぶやくことをやめ、微笑み、赦しましょう。悪い農夫さえも、まだ神は見捨ててはいません。その中からパウロのような人も生まれました。逆説ですが、愛の教会は、成功によってではなく、神の権威を侮る人間の傲慢と失敗、捨てられた石、つまり十字架によって生まれたのです。ケント・キースという人の逆説の十か条(十戒)をマザーテレサが感動して、「孤児の家」の壁に貼ったそうです。副題は「それでもなお人を愛しなさい」です。これこそが愛の神の権威に従うことです。

  1. 人は不合理で、わからず屋で、わがままな存在だ。それでもなお、人を愛しなさい。
    (People are illogical, unreasonable, and self-centered. Love them anyway.)
  2. 何か良いことをすれば、隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
    (If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives. Do good anyway.)
  3. 成功すれば、うその友だちと本物の敵を得ることになる。それでもなお、成功しなさい。
    (If you are successful, you will win false friends and true enemies. Succeed anyway.)
  4. 今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。それでもなお、良いことをしなさい。
    (The good you do today will be forgotten tomorrow. Do good anyway.)
  5. 正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。それでもなお、正直で率直なあなたでいなさい。
    (Honesty and frankness make you vulnerable. Be honest and frank anyway.)
  6. 最大の考えをもった最も大きな男女は、最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落とされるかもしれない。それでもなお、大きな考えをもちなさい。
    (The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down by the smallest men and women with the smallest minds. Think big anyway.)
  7. 人は弱者をひいきにはするが、勝者の後にしかついていかない。それでもなお、弱者のために戦いなさい。
    (People favor underdogs but follow only top dogs. Fight for a few underdogs anyway.)
  8. 何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。それでもなお、築きあげなさい。
    (What you spend years building may be destroyed overnight. Build anyway.)
  9. 人が本当に助けを必要としていても、実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。それでもなお、人を助けなさい。
    (People really need help but may attack you if you do help them. Help people anyway.)
  10. 世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。それでもなお、世界のために最善を尽くしなさい。
    (Give the world the best you have and you'll get kicked in the teeth. Give the world the best you have anyway.)

 

-今週の説教