ああ我ら何にも悪きことせぬを「原発石棺」終身刑とぞ
福島県で高齢老人の運転する車が誤って車道を激走してしまい、死傷者をだしました。運転していた97歳の老人が句が上記のものです。逮捕された波汐國芳(なみしお・くによし)容疑者は、地元では知られた「独居歌人」だったそうです。17年には、福島原発事故などについてまとめた歌集「警鐘」で第32回詩歌文学館賞を受賞したそうです。その中の一つが、「ああ我ら何にも悪きことせぬを「原発石棺」終身刑とぞ」、だったのでしょう。これは、福島県の人々の心の痛みと終わりのない閉塞感をよく表現した短歌だと思います。ただ、その句の中で、気になる箇所があります。それは、前半の「ああ我ら何にも悪きことせぬを」という部分です。皮肉にも、こう書いた本人が「悪きこと」を行ってしまったわけです。おそらく、ウクライナ戦争を実行しているプーチン大統領ですら、後の時代には、「ああ我ら何にも悪きことせぬを」と回想するのに違いありません。それだけでなく、これまで問題を起こした日本の政治家の多くも、表向きは謝罪しても、陰では「ああ我ら何にも悪きことせぬを」と思っているに違いありません。さらに恐ろしいのは、わたしたち自身も、自分の過失に対して「ああ我ら何にも悪きことせぬを」と考えやすいのです。この原因は原罪です。原罪に気付かぬ限り、人間は自己肯定の考えに染まっています。若いころのパウロもそうでした。キリスト教徒を迫害・虐待しても平気でした。しかし、その彼も己の原罪を自覚し、悔い改めてイエス・キリストを救い主として信じたときに、彼の世界観は変わりました。そしてこのように書いています。「わたしは自分の望む善は行わず。望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ローマ書7章19節以下)「悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ書3章11節以下)ここで大切なのは、悪(原罪)の問題を他者の問題としてとらえるのではなく、自分の存在の根にある問題としてとらえることです。人間の根にある原罪は、深部にあるものであり、表面的な個人の反省や努力では決して解消しません。ですから、救いを、原罪からの贖いを行える唯一の救い主イエス・キリストに求めることです。最初の句に戻ると、原罪がある限り人間は皆、「終身刑」を受けた罪人と同等なのです。 ああ罪よ終身刑を受けし身なれど救われし。(中川)