閑話休題

唐獅子牡丹が示す日本人の心

ネットで偶然に「昭和残侠伝」という、高倉健主演の映画を見ました。これは、戦後の浅草界隈のヤクザの抗争を描いた1960年代の映画です。最後の場面で高倉健が演じる寺島誠二が、池部良が演じる食客の風間とたった二人で殴り込みをかける部分で、池部良が、同行を止める高倉健に対して、恩返しをしたいから「男にしてやってください」と願います。深くうなずいた高倉健の姿と死を覚悟して夜道を進む二人を背景にして「唐獅子牡丹」の曲が流れていきます。任侠の世界であり、暴力的な映画ではありますが、ここに古い日本人の精神が現れていると感じました。また、「唐獅子牡丹」の歌詞には、「義理と人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界、幼馴染の観音様にゃ、俺の心はお見通し、背中で吠えてる唐獅子牡丹」とあります。ここで分かるように、義理を各自の感情より大切にしたのが当時の日本人の心でした。そのためには、どんな犠牲も惜しまない姿勢がありました。現代の政治家に見られるような、欲得を第一とする自己利益優先の世界とは違います。昔の日本人は純粋だったのだなと思いました。それだけでなく、義理と人情のはざまで苦しむ人の心は、観音様と表現されている神様が知っていて下さるという意識があったのです。逆に言えば、義理に反したことをしていれば、神の怒りをかうことになるのを、昔の日本人は認識していたのでしょう。聖書の中でイエス・キリストが十字架にかかったのも、義理と人情(律法と福音)の狭間での出来事だったことを思うと、まことに興味深いものでした。救い主が犠牲となって血を流すこと(義)なくして、原罪の奴隷となった人類の救いはなかったのです。これも、権力や金に染まった現代のカルト宗教とは全く別の高貴な世界です。

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