閑話休題

死についての考察9「一粒の麦の死」

先週の日曜日に友人のIさんが突然亡くなりました。原因は、クモ膜下出血だそうです。年齢もわたしより若くて、まだ50歳代でした。Iさんの家は農家で、近所の人たちにも慕われている優しい人でした。奥さんが癌にかかってからというもの、その治療のために体に良い野菜を作ったりして努力していました。わたしが借りている三反ほどの農地も、Iさんが斡旋してくれたものでした。それだけでなく、春や秋には大きなトラクターで土地を耕してくれていました。とても健康的な人だったので、まさか突然死ぬとは夢にも思いませんでした。来年は一緒に水田でコメを作ってみますか、と誘ってくれて、楽しみにしていました。わたしの園芸の趣味もかれこれ20年以上になりますので、Iさんとの付き合いも20年以上ということになります。そうした友を亡くしたことで、心の中にポッカリ穴が開いてしまいました。耐えがたい喪失感です。死について考察する余裕もなく、ただただ悲しみに沈んでいました。今日は、久しぶりに畑に行ってIさんのことを偲びながら農作業をしていると、ある言葉が脳裏に浮かんできました。それは、宗教改革を行ったルターの言葉で、「もし明日が世の終わりの日だとしても、わたしは今日リンゴの木を植える」というものでした。人も死に、自分も死に、この世の終わりもあるでしょう。仏教でも盛者必衰と教えています。ただ、コロナ以上の疫病でヨーロッパの人口が半減した時代にも、ルターは牧師としての仕事を放棄せず、病人を看護し、死者を丁寧に葬ったのです。その彼が言った言葉には重みがありました。それは、はかない人生の終わりをつくづく熟知した者の言葉でした。しかし、単なる諦念には終わらず、明日への希望である「リンゴの木を植える」という明るい信仰心に満ちたものでもありなした。この明るい信仰心がなかったら、当時の社会では神にも匹敵する権威と権力を持っていたローマ法王庁に反対意見を述べることは不可能だったでしょう。そして、勿論、死を覚悟して宗教改革をすすめたのでしょう。若いころ、暗く希望のない死の道を歩んでいた自分を救ってくれたのは、ルターが最も大切にしていた聖書の希望の言葉でした。Iさんの死去で沈み込んでいたわたしの心に光を与えてくれたのは、こうした希望の言葉です。その一つにこのような言葉があります。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されてものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。」(ヘブライ人への手紙11章13節以下)死は悲しい喪失の出来事ですが、神の世界では、それは決して終わりではなく、古いものが役割を終えて、新しい生命の局面へと移行する出来事だと思います。イエス様はそのことを熟知しておられました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ。」(ヨハネ福音書12章24節以下)

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