今週の説教

新年初頭に礼拝の意味を学ぶ読む説教

「黄金よりも貴い宝をあなたに」   マタイ2:1-12

新しい年になりました。昨年も戦争やテロ、そしてコロナ禍があり、困難な年でした。しかし、昨年末には流星群を見るために夜空の美しい星を見ていて、永遠性を感じることができました。この地上の困難も、何億年何兆億年もの宇宙の歴史の中では、眼に見えないような小さな点に過ぎません。

今日の日課に占星術の学者たちが登場します。彼らは、悪い意味では、魔術師ということであり、良い意味では聖なるカルディア人の祭司ということになります。彼らの考えには迷信的なものもあったのですが、古代社会ではすべての出来事が星の支配下に置かれていると信じられていました。現代のわたしたちでも、星空を見つめていると彼らの気持ちが理解できなくもありません。占星術の学者は東方の国からやってきたと書いてあります。当時の東方とは、イスラエルから見てアラビヤ地方のことを指していました。その東方の国の一つであるイエメンでは、国王がユダヤ教の信仰を持ったことが知られています。イエメンに限らず、中近東にはディアスポラとよばれるいわば華僑のような海外移住のユダヤ人がいたことが知られています。後にキリスト教が急速に広がった際にも、こうした各地のユダヤ人の助けがあったわけです。

これらの学者たちは救い主誕生の正確な場所は知らなかったようです。しかし、彼らから情報を得たヘロデは不安を感じました。自分の政権が、新しい指導者によって転覆されることを恐れたのです。それにヘロデは純粋なユダヤ人ではなく、エドム人だったので、必死で権力を握ったのにもかかわらず、民衆の尊敬を受けることはできなかったのです。ですから、彼が得たかった情報は、メシヤの誕生を示す星が、いつ、どこで現れたかです。その結果を示したのが、ミカ5:1からの引用でした。しかし、旧約と新約を比較しますと、新約には「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」の部分が見られません。この部分を彼らの時代にあわせて考え、口語で翻訳する、ドラゴマンと呼ばれた註解者がいたからです。そして、彼らは時代のなかで、聖書を解釈していったのです。これは大切なことで、わたしたちも聖書を、わたしたちの時代の中で、わたし自身の置かれた人生のなかで理解していかなくてはなりません。ですから、語られたみ言葉である説教が信仰を維持するには不可欠です。それが、印西インターネット教会の使命でもあります。

9節にあるように、救い主をベツレヘムで最初に発見したのは異邦人の学者たちでした。もともと神を知っていたユダヤ人たちは、自分の為に神を求め、その機会を失いました。ここに、先の者が後になり、後の者が先になるという実例があるのです。そこにこそ神の働きでもあります。人間がこうであるべきだと思うところを、神は後にして、もっとも相応しくない者を、相応しい者として立てるのです。人生でも、これだと思ったものが崩壊することがあります。それは、神ご自身が、人間の確信を崩壊させ、それにとって代わる神の確信を示すためです。権力を手にしたヘロデは自分の知恵と策略によって滅んだわけです。現代のウクライナ戦争も同様ですが、愛の神の御意思に反して権力を乱用するものは、やがて滅びます。のです。

パウロは「キリストのために愚か者になる、弱い者になる」(第一コリント4:10)ことの大切さを教えています。神への信仰を誇るユダヤ人から見たら、占星術の学者などが述べることは、無視してよい問題外の事柄だったでしょう。しかし神は、彼らに最初に救い主を発見し、礼拝する特権を与えたのです。いまはコロナで困難ですが、わたしたちが礼拝に出ているのはどうしてでしょうか。自分で選んで礼拝にでているように錯覚する人も存在するかもしれませんが、喜んで礼拝できるという事は、神の奇跡であり、神の与えた特権であることを覚えたいものです。また、コロナ禍が教えてくれたものは、イエス様の言葉である、「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時がくる」(ヨハネ福音書4章21節)、というのは、地上の教会だけが礼拝の場所ではないということではないでしょうか。わたしが、イスラエルのエルサレムに住んでいた時には、毎朝夜明け前に旧神殿跡の嘆きの壁に行って祈っていましたが、ユダヤ人たちはそこに集まって礼拝していました。勿論、建物も、オルガンもない、野外礼拝です。ある時などは、彼らの礼拝の人数が足りないと言って、無理やりグループに入れられたこともありました。自分の頭の上にキッパーという黒くて丸い小さな帽子をかぶっていたので、信仰者とみなされたからでした(笑)。

さて、本文の11節には彼らの礼拝と、捧げもののことが書いてあります。随分昔に、日本人の牧師と外国の宣教師が二人で礼拝の時をもったそうです。すると、宣教師がポケットからお金を出して献金をささげたそうです。不思議に思った日本人の牧師が聞きました。二人だけの礼拝なのだから、祈りで十分ではないのか。宣教師はいいました。「捧げるもののない礼拝はありえません。」ヘブル書11章には信仰と、捧げものの関係が書かれています。アベルもカインも捧げたのですが、アベルは信仰の喜びから、自分の最高の肥えた家畜を捧げた。神はカインの捧げものには目をとめなかった。本当の感謝と信仰から来るものではなかったからでしょう。その点では、東方の占星術の学者の捧げものは神のみ心に叶うものでした。黄金は、王の印でした。乳香はバルサム、ミルラとも呼ばれました。歴史家ヨセフスによるとこれをユダヤ人の地に最初にもたらしたのはシバの女王だったそうです。礼拝の印であるお香です。また、没薬はマルコ15:23でぶどう酒に混ぜて飲まれたことがわかります。埋葬の印でした。つまり、3つの宝物とは、王、礼拝、埋葬の象徴であったのです。王の王である幼子イエスが、その後、人類を罪から贖い出すために、十字架にかかって処刑されること、そして、この処刑された方を救い主として礼拝することが予告されているのです。聖餐式の聖卓が礼拝の中心であるのもこのためです。神の側にたって礼拝すること自体が、一つの奇跡ですが、その時には十字架を引き受ける覚悟が生まれます。キリストがハートの中に誕生するのです。それがなくては、罪を示されないで説教を聞くこと、悔い改めなしに聖餐を受けることになります。十字架のない信仰とは、塩味のない塩のようです。礼拝とは、犠牲と無関係ではなく、講演会ではないのです。この方を礼拝すること。この方が我が人生の中心となること。黄金よりも貴い宝をこの方に、捧げたいと願う事、それが礼拝であり、救いがあるのです。人生に起こる、悪魔の策略に、振り回されないこと。人を非難し、自分を正しいとする悪魔を信じないこと。むしろ、自分は罪深く、自分は正しくなく、弱く滅びる存在にすぎなと認識すること。しかし、愛の神は絶大な励ましと喜びをもって、自分を拾い上げてくださったことを感謝すること。そして、この人知を超えた神の救いをたたえる(賛美)ことが礼拝なのです。

つまり、この要素があれば、野外でも、教会の礼拝堂でも、自分の部屋や、会社の事務室でも礼拝は可能なのです。イスラム教徒などは、この点、毎日定時にメッカの方を向いて礼拝します。キリスト教も、日曜日に礼拝堂で礼拝するという唯一のパターンを変えていくべきではないでしょうか。新年初頭にそんなことを考えます。

パウロもエフェソ3:8で「恵みが、最もつまらない者であるわたしに与えられました」と語っています。またこれに関する点として、「誤った信仰を持つ者は明らかにされ、神のみ言葉を認識する値打ちのないものは、つまずかされ、かたくなにされることをわたしは知っていますし、確信しています」とルターは述べています。新しい年に、新しい礼拝ができていることは、まさに神の憐れみが与えられている証拠です。日本や、世界のどこかでこのインターネット教会の説教に触れている方々が、今、皆さんが置かれている場所で、

「自分は罪深く、自分は正しくなく、弱く小さな滅びる存在にすぎなと認識し、同時に、愛の神は絶大な励ましと赦しをもって、自分を愛し続けてくださることを感謝し、そして、この人知を超えた愛の神の救いをたたえる(賛美)こと」ができれば、それが礼拝なのです。「わたしが犯したすべての罪をおゆるし下さい。」「御子イエス・キリストの十字架の犠牲による罪の赦しを受け入れます。」「あなたの無条件の愛に感謝します。」この三つのことを口に出して唱えれば、小さいながらも完璧な礼拝は完成します。そして、真実の礼拝ができたものには、神からの大いなる賜物が授与され、使徒たちのように力強く生きていくことができます。

さて、あの占星術の学者たちが、別の道を通って行ったというのは、わたしたちをキリストから引き離す、悪魔の力や人間の知恵だけに頼るアドバイス、或いは脅かし、噂話などに耳を傾けてはいけないということです。わたしたち一人一人はイザヤ書60章にあるように、晴れやかな心で、主の栄誉を述べ伝える者として選ばれているからです。ヘロデのような「拝みにいこう」と言うだけの自分中心性から神中心、恵み中心に変わることが大切です。神の子イエス・キリストが、この世に生まれ、わたしたちの兄弟となり、限りない罪の苦しみをも取り除いて下さることを感謝することが、礼拝であり、黄金よりも貴い宝です。

人知ではとうてい計り知れない、神の平安があなたがたの心と思いを、イエス・キリストにあって守って下さるように!

 

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