閑話休題

故エルヴィス・プレスリーさんの一人娘で歌手のリサさんの死

エルヴィス・プレスリーさんの一人娘リサさんが54歳で亡くなったそうです。わたしの20年来の友人も、昨年末に54歳で突然に亡くなりました。彼の死因は大動脈解離でした。リサさんの場合には、自宅で心肺停止の状態で発見されたそうです。エルヴィス・プレスリーさんの場合も突然死でした。忘れもしません、あれは1977年8月16日でした。わたしは神学校のあったミネソタ州から、夏休みを利用してグレイハウンド・バスに乗ってオレゴン州の知人を訪ね、帰路についており、モンタナ州あたりをバスに揺られてウトウトしていた時でした。突然、バスの中で臨時放送が鳴り響き、エルヴィス・プレスリーさんが亡くなったことが報じられました。8月16日でした。アメリカ人はいつも陽気でバスの中もにぎやかだったのですが、この放送の後には、皆が悲しみに沈みました。エルヴィス・プレスリーさんはアメリカ人の英雄のような人だったのだなと感じました。リサさんはその時、9歳ぐらいだったと思います。きっと父親の突然の死に衝撃をうけたことでしょう。まさか、その時、自分も若くして亡くなるとは思ってもみなかったでしょう。わたしたちは、遅かれ早かれ、この死に直面しなければなりません。知人の牧師さんの妻は、「死の問題が恐ろしくて、教会に行って答えをみつけたいと思いました」と言っていました。確かに、死と命の問題は聖書に書かれている事柄の中心事項でもあります。仏教なら、それは解脱かもしれません。聖書にはこう書かれています。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」(ローマ信徒への手紙5章12節)死ということには、生物学的な終焉も含まれますが、聖書の神学では、死は原罪による神(生命の源)からの離反として理解されています。ですから、原罪の問題が解決されないかぎり、死の問題も解決されないわけです。この苦しみを、仏教では自分の修行によって悟りを得て、解脱することに答えを見出そうとしました。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」と唱えて火あぶりで死んだ恵林寺の快川和尚さんの例がこれでしょう。ただ、ここまで到達できるのはごく少数であり、わたしたちはペットの死の悲しみすら、なかなか克服できないものではないでしょうか。そこで、聖書が提起する解決策は、まったく他力の方法による、原罪の贖罪としての救い主の十字架の犠牲を信じることです。これには修行は必要ありません。自分の苦しみの原因は原罪にあると自覚し、自分で自分を救おうとする行為をストップし、無力で弱い存在として十字架の救いを信じるだけです。そして、この十字架の救いが示されるのが教会なのです。印西インターネット教会は、建物のない教会ですが、一般の教会も同じです。教派も関係ありません。十字架の信仰のある教会が、原罪からの贖罪を教えている教会です。カルトの教会には残念ながら十字架がありません。聖書には弟子のペトロに対するキリストの言葉が残されています。「あなたはペトロ(岩という意味)。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」(マタイ福音書16章18節)ここにある「陰府の力」というのが、原罪であり、死のことなのです。では、信仰にって原罪から救われると、どんな変化があるのでしょうか。その一つは、まったく修行をしていないのに、快川和尚さんのように死を恐れないことができるのです。実例として考えられるのは、長崎の26聖人です。当時の宣教師がローマに送った書簡には、十字架にはりつけにされて悲惨な死を遂げた日本人たちは、まったく死を恐れなかったということが、驚きと共に報告されています。それは、イエス・キリストの言葉通りだったのです。エルヴィス・プレスリーさんの両親もペンテコステ派のキリスト教の熱心な信者であり、プレスリーも9歳で洗礼を受けていますので、死ぬ瞬間には祈りと共に自分の魂を神にゆだねたと考えられます。それが1977年8月16日でした。今回は、娘のリサさんの死でしたが、その魂が神のもとに平安を与えられるように祈りたいと思います。

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