書評

篠田桃紅著「これでおしまい」2021年、講談社

これは107歳で亡くなった日本の女流書道家が、生前に書いた随筆です。わたし自身の母親も今年の3月で103歳になるので、なにか共感をもって読むことができました。すぐれた芸術家は、自分の創作の時に、対象の観察に着目している場合が多いと思いました。その本の中のこんな言葉が目に留まりました。「富士山などに雪が降っているいるのを見ると、絵なんていうものは、吹き飛ぶような存在ですよ。あの大自然の美しさを前にして。」(同書、216頁)わたしの姉は画家ですが、姉が師事した故三栖右嗣先生も、対象をよく観察するように教えていたそうです。三栖右嗣先生は東京芸大で安井曾太郎先生から学んだ方でしたが、おそらく、安井先生もそのように考えたのではないでしょうか。三栖先生は、50歳近くまで無名でしたが、「老いる」という題で、年とった自分の母親のヌードの画を描き安井賞を受賞してから有名になりました。これも、対象観察の賜物ですが、そこには対象に対する愛情が含まれていたと思います。篠田桃紅氏の「これでおしまい」にも、人生そのものに対する愛情が感じられました。そして、こんな風に書いてあります。「人は何も持たないで生まれてきて、そしてまた何も持たないで生涯を終える。その何もない究極の孤独とかなしみのなかでしか生まれないものがあると思う。」(同書、245頁)これは聖書の言葉の引用でもあります。「なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持っていくことができないからです。」(第一テモテ6章7節)禅宗の教えにも類似したものがあり、これは「本来無一物」として理解されています。ただ、これらの解釈には興味深い解釈の違いが含まれています。篠田桃紅氏は、芸術家として、無一物のなかに人間の持つ孤独感と悲哀を感じながら、それが創造力の原点だと認識しています。仏教では、執着が迷いの元凶であるという理解から、断捨離を推奨します。キリスト教では、引用したテモテ書簡の後半にその意図が示されています。「高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みをおくように。」(第一テモテ6章17節)つまり、この手紙を書いたパウロが勧めていることは、諦観とか寂寞ではなく、絶対愛の神への方向転換です。この方向転換のことを、ヘブライ語ではシューブと言い、キリスト教神学では「悔い改め」を意味します。つまり、周囲の対象や自然への着目だけでなく、さらにその背景として存在する天地創造の神の絶対愛に注意を注ぐことが大切なのです。そして、このことを、神学では「信仰」と呼びます。ですから、悔い改めと信仰とは、表裏一体をあらわす言葉です。そして、これがわかるときに救いが始まります。「これでおしまい」は、実は、「これがはじまり」だったのです。

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