今週の説教

聖書の教える「愛」について読む説教

「愛を愛するならば」     マタイ5:21-37

マタイ福音書の21節の昔の人とは、出エジプトの時代の人々でしょう。「殺すな」とは、モーセの十戒の5番目の言葉です。殺人の禁止です。わたしたちにとっては当然な事です。そして、残忍な殺人をした者にたいして、非難の言葉を浴びせます。そしてそのようなひどい罪を犯した者は、厳しいさばきを受けなくてならない、と思うものです。イエス様はそれを当然のこととしながら、もっと深いことを教えています。そもそも、殺人に到るまでには、どうすることもできない憎しみや怒りがあるはずです。原因があるはすです。わたしたちは、愚かにも原因を突き止めることなく、結果として現れた殺人を告発したり裁判で裁いたりしているわけです。イエス様は、殺人の原因が怒りと軽蔑にあることを教えました。

さて、深く考えてみますと、怒ること自体が自己の考えの絶対化であるといえるでしょう。これは、極端にいえば自分が神の座に立っていることと同じです。ルターはこの第5戒個所についてこう言いました。「この個所の禁止には神と公権は含まれていない。また神の代理をつとめる両親もこの個所には含まれていない。」つまり、怒ること裁くことは神からきて、親や裁判所、警察などの公権に及んでいるという考えです。それ以外の場で怒ることは越権行為だというのです。イヤなことをされた、変なことを言われた、不公平に扱われた、というようなときに、わたしたちが怒るのは当然のように見えます。自分には怒る理由がちゃんとあるからです。「イヤなことをされたから怒る」、「おもしろくないから怒る」、「相手に落ち度があったから怒る」のです。少なくとも、自分が悪いのではないと思っています。神の領域を犯すなどとは思ってもいません。

しかし、ここに誰でも見落としがちな過ちがあります。それは、神の領域を犯すことによって、やがて本人が神から捨てられてしまう点です。ですから、神の領域を侵さないこと、怒らないということは、感情の問題だけでなく、神への謙虚さとか深い信仰心にねざすものなのです。これはわたしたちにとって厳しいことです。原罪があるからです。普通の人間は悪魔にそそのかされて多くの敵を持つことになります。憎しみや、怒りの罠にかかりやすいものです。そうならないために、ルターは言います。「だれかが何か悪い事をした場合、たとえ、その人がそうされるだけの十分な理由があったとしても、決して何人もその人に害を加えてはいけない。」柔和な心を学ばなくてはならないということです。さらに、隣人に悪をしないだけでなく、助けられるのに助けない者、これも同罪だとルターはいいます。審判の日には、神は恐ろしい判決をくだすであろうというのです。それは溺れかかって手を伸ばしている者を無視するのと同じだからです。また、この点で自分が本当に不完全なことを実感しているなら、どうして、同じく不完全な他者の欠陥や失敗を怒ることができるでしょうか。ですから、イエス様は自分を見つめることを教えています。日本語では内観、英語ではリフレクションと言います。そしてさらに、イエス様を見つめることが大切です。自分の欠点を知って、同じ欠点を持つ者と和解しなさいというイエス様の教えを忘れないことです。

さて、次の部分をみましょう。27節以下です。姦淫の禁止です。これはモーセの十戒の6番目めです。当時のイスラエルでは結婚した女性が他の男性と関係を持てば死罪でした。結婚した男性の場合には、相手の女性が結婚していなければ関係を持っても罪に問われませんでした。そうした男性優位の社会の中で、イエス様は怒りと殺人の関係と同じように、姦淫という結果に到るまでの原点を、問題視したのです。それは結婚と家庭を守るためでした。一つの例ですが、かなり前に連続幼児殺人事件を起こした宮崎被告も、裕福な家庭に育ったのに愛情が欠けていたそうです。自分の手が思うように動かせない障害をそのままにしてしまい、彼に大きな劣等感を負わせてしまったのです。家庭はそうした面で、遊びや冗談の場所ではなく、神聖な場所であるとルターは言いました。配偶者は神からの賜物であるから、心から愛すべきであり、尊重すべきなのです。相手の態度を観察して尊重するのではありません。神の与えて下さった伴侶だから愛するのです。

ですから、情欲をもって女性を見るだけで、これは神の計画に反する姦淫だと、イエス様は教えたのです。実をいうと、「他人の妻」という言葉は「ギュネー」というギリシャ語なのですが、主な聖書は皆「女」と翻訳し、新共同訳聖書だけが「他人の妻」と翻訳しているのです。そうするとここは「女」と訳してもよいでしょう。それを防ぐためには、目を失っても良いとしているのです。第一テモテ5:2には「若い女性には清らかな心で姉妹と思って接する」ように教えられています。死罪になるよりは、自分の大切な体の一部を失ってもよいのです。それは実際に目をえぐるのではなく、ここにイエス様の優先順位が示されているといえます。たとえ、体の一部を失っても、魂が地獄で滅んではいけないというのです。何が大切なのか。神が定めた結婚と家庭が守られなければならないのです。

次の離縁についてですが、当時は男性が勝手に離婚を決定することができました。ここでも、イエス様は原点から発想しています。結婚は神が定めたものであるから、人間が感情でわかれてはいけないというのです。パウロもエフェソ5:25以下で教えています。「キリストが教会を愛したように」キリストの愛で愛しなさいということです。しかし、「ちいロバ物語」で有名な、故榎本先生は言いました、「私たちは、隣人を愛することができない。」私たちは、どこか遠くにいるあんまり関係のない人を愛していると言うことができるし、赦すこともできるし、たまに会った人にニコニコとあいさつをすることができるものです。しかし、毎日顔を合わす人、そういうような人を愛することができない。神の定めを人生の第一条件にできていないのです。それゆえに、結婚は教会の奥義でもあるのです。この神秘は偉大ですと書いてあります。つまり、キリストはわたしたちが価値ない存在でも、ホセア書14:5にあるように「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する」とあるように、離婚しない、捨てないという事です。だから、神の定めを飛び越えて人間の思惟を第一にしてはいけないというのです。自分を絶対化してはいけない。また、女性が何も決定権を持っていなかった時代に、イエス様は弱者の立場に立ってくださったのです。

この3つの教えに共通しているのは命の大切さです。神こそ命であり愛だからです。宗教の経典に書いてある神や、お守りや、神像が神なのではなく、真実の愛と命と光こそが神なのです。この律法を教えられたイエス様は、十字架においてその教えの責任をとられたのです。人を愛さず、愛していないのに自分は平気だと思って怒り、神の領域を犯す人、赦されることはなく、やがて神から捨てられてしまう人、それは、イエス様を十字架につけた人々であり、また、わたしたち自身でもあります。その罪を、イエス様は自分の裁きとして受けられ、十字架にかかりました。それが主の愛です。そうして、私たちを、教えて下さるのです。わたしたちが罪人でありながら愛されていることをです。罪をなくして、更生したら愛すのとは違います。罪のあるままのわたしたちを愛してくださるのです。そして、不思議なことに、この救い主を愛することにって、自らも愛の人に変えられていくのです。努力でそうなるのではありません。愛です。

旧約聖書の申命記30:19にも、「命を選び」なさいとあます。換言すれば、「神を選びなさい」ということです。その命を選ぶことが、神を愛し隣人を愛する原動力となるのです。また、そこには必ず大きな恵みが溢れるでしょう。怒らないこと、欲望に走らないこと、相手を捨てないこと、これらはすべて努力の対象ではなく、自分の無力を自覚し、悔い改めた(神への方向転換の意味)者への賜物です。愛なる神が御自身と被造物すべて、人生の出来事全てを、愛する無条件の愛を与えて下さるのです。

 

人知ではとうてい計り知れない、神の平安があなたがたの心と思いを、イエス・キリストにあって守って下さるように。

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