今週の説教

人生の試練に対処する方法を聖書から学ぶ説教

「罪の治療法」       マタイ4:1-11

先々週から受難週に入りました。12年前の3月11日の午後に大地震が発生しました。ちょうどその時に、その年の1月5日に亡くなくなった本郷教会の出身の先生の納骨式の際に揺れが始まりました。周囲の墓石もいくつか倒れたと思います。その時点で、大変な災害だという印象でした。苦難の時代の始まりのような予感がしました。

さて、今日の福音書の日課は、サタンの試みに関してです。旧約聖書の日課である創世記もサタンの誘惑です。エデンの園の話も、実は「善悪を知るため」のアドバイスが誘惑となったのです。今日の教えは救いに関してです。試みに関してイエス様の態度は弱い姿勢をとっています。福音が弱き者と共にあるということは聖書に一貫しています。「弱きものよ我に全てまかせよやと主はのたもう」、という讃美歌の一節もあります。イエス様は自分が弱くなることによって、人間の根本問題である神となる誘惑と罪から自由であることをあきらかにしました。罪とは自分を神より高く置くこと、自分が正しいとすることです。罪がいやされない限り、個々の問題は解決しても根本問題はいつも残ることになります。

信仰というのは、神にもっとも遠いところで神に信頼しているかどうかと言えるでしょう。荒野とはまさに、困難と欠乏の象徴の場所、無の場所でした。それは神なき場所の象徴です。苦しみの場所です。神の見えない場所です。40日の断食は出エジプトの40年と関連します。出エジプトは解放の歴史でした。ですから、イエス様の40日も、人類の束縛からの解放に関係します。神が見えない場所で、神を見出すことです。

4節は「人はパンがなくても生きられる」という意味の解釈をする学者がいます。わたしもそう思います。パンもみ言葉も必要という二刀流ではないのです。例えば発明王エジソン。彼について、発明は99パーセントの努力と1パーセントのひらめき。しかし、クリスチャンであったエジソンは両刀使いではなかった。彼が言ったのは、人間に99パーセントの努力があっても、神様があたえる1パーセントのひらめきがなければ発明はできない、ということです。

パンがあり、生活の便利さがあるのが人間の権利だと考えます。その、権利を用いて、サタンは権利を主張することがどこが悪いのだろう、自分も相手も当然のことを要求して何が悪いのだ、という発想をおこします。自分は健康に、人並みに暮らすのが当然ではないか、神はそれを保証するのが当然ではないかという挑戦です。そこには「もし御心ならば」という発想がありません。だから、イエス様は、この様に人間が要求する当然の権利の一部であるパンがなくても生きて行けると言ったのです。当然という考えに疑問をもたせたのです。当然のものを当然としないのです。主の祈りに「日ごとの糧を今日を与えたまえ」とある通りです。イエス様はこの言葉にしがみついていました。本気で与えて下さいと願っていました。これがサタンへの反論でした。

第二の誘惑は、聖書の言葉を用いた誘惑です。神をそんなに必死で信じているのなら、自分は出来なくても神はできるでしょうといったのです。自分の力を棄てても、神の力は捨てないでしょう。その力が生きる信仰の基盤なら捨てられるはずはありません。ここで、神の力を捨てないということは、神を自分のために利用することです。イエス様の譬えで言えば、茨の中に播かれた種です。実らない信仰といえるでしょう。神より自分の利益の方が先です。これは、宗教的幸福主義と呼ばれています。自分のパンは捨てても、自分の宗教的な救いは捨てない態度です。自分のエゴイズムのために神を使用しているにすぎないのです。ですから、もし自分の願望と違うのならば、神を棄て、信仰を捨てる人間的な宗教観です。イエス様は自分の救いの確信さえ棄てる用意がありました。パウロもローマ書9:3でユダヤ人の救いの為なら自分が呪われてもいい、つまり救いを棄てて良いといっています。宗教の死を容認する姿勢です。これにはサタンも勝てませんでした。

第三の誘惑は、イエス様のメシアに関することです。世を救うという使命を狙ったのです。使命が高ければ誘惑も強いのです。サタンが自分を拝んで自分を拝むなら願いをかなえようというのです。この世の平和を、癒しをもとめることがこの誘惑にかかりやすいのです。しかし、神に棄てられなければ、神の子にはなれないのです。人生のマイナスのしるしが実は神の出会いの接点なのです。盛り上がりではなく、凹んだ点が神の出会いの時です。イエス様はそれが十字架でした。神から捨てられる事を受け入れた者が実は最も近い者でした。ローマ書3:25にキリストの供え物が述べられています。犠牲の供え物とは、棄てられた命であります。この罪の誘惑に勝てる者はいません。イエス様が十字架の死によって滅ぼしただけです。ですから、罪の治療法はないと言えます。

さて、ここでもしわたしたちが不治の病にかかってしまったらどうするでしょうか。デーケン先生は、愉快にすごすと治るといいます。それも良い対処療法でしょう。あるいは、深く悔い改めてキリストを信じるならば癒されるのでしょうか。これらは、ある心の状態と持つことが条件になっています。しかし、本当は愉快に慣れなくてもいいのではないでしょうか。吉本興業のお笑いのように陽気でなくて居酒屋でそっと涙をながしてもいいのではないでしょうか。わたしたちは弱い者です。罪の治療法を持たないものです。その時にただ嘆き神に訴えるだけの人間です。

しかし、自分が神に訴えている時、むしろ外ではなく内側に既に恵に入れられていることを知ります。神が働きやすいのは、人間が自分の力で頑張っている現場ではないです。「ああ、もうだめだ」「私なんかはもう無理だ」というようなところに神さまが働かれる。四旬節の間、人生の荒野で、自分の無力の中で、神を覚えたなら、既に奇跡です。その奇跡を実感します。そうして、本当に喜びの内にイースターを迎えるのです。すべて、人間がすることじゃない。神さまが働くことです。エデンの園アダムとは塵です。ある人は塵とはけしからんと言いました。ゴミだから。でも塵でいいんです。塵は失敗するし、人を傷つけるし、すぐあきらめてやめてしまいます。なにしろ塵なんだからしょうがない。しかし、神に導かれるなら、人は生きるものとなり、教会も生きた教会となる。今日もこの書かれた説教を読んでくださっているという事実は神に導かれているしるしです。これからイースターまでの間、神さまが塵である皆さんに特別のことをしてくださいます。皆さんは神によって選ばれた者だからです。神がすべて用意なさいますから、何か特別の人になる事も必要ありません。イエス様はそれをマタイ12:20で、「くすぶる灯心を消さない」というイザヤ書を引用しました。わたしたちは弱い光です。それで十分です。それは、マタイ11:5「貧しいひとは、福音を告げ知らされている」と述べられているからです。貧しいには金銭だけでなく信仰や行動、健康などもはいるでしょう。貧しいままに、悲しくて心細いままに愛して下さる方がいるのです。まさに理由なき愛の方、これが神です。この神がともにおられる事をイエス様は、誘惑と試練のなか、つまり神が見えない場所でわたしたちにその愛をそっと示してくださいました。神を本当には知らないという罪が、自分の努力や信心によってではなく救い主イエス・キリストによって癒され、癒された者は他者の癒しの為に用いられるのです。感謝です。

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