今週の説教

神の狭き門に入学試験はあるのだろうか。

「命の門から入れ」          ヨハネ10:1-16

世界には有名な門があります。ドイツで一番有名なのは、ブランデンブルク門で200年以上前につくられたベルリン市を囲む城壁の門だったそうです。お隣の中国には、南京に中華門があり、700年ぐらい前に作られた物で、北京の天安門より古いものです。北京の城壁はあまり残っていませんが、南京は30キロ以上の城壁で囲まれており、門は13あるそうです。その一つの中華門は縦横100メートル以上、高さが20メートルの石の要塞のようなものであって、中には3千人の兵士が入って防衛できたそうです。エルサレムに行きますと、ヤファ門というのが残っています。旧エルサレムも城壁で囲まれた都市です。ヤファ門は、「美しい門」とも呼ばれ、使徒言行録3章の記事で、ペトロとヨハネが「わたしたちに金銀はないが、持っているものをあげよう」と言って、足の不自由な男を癒した話が残されています。古今東西を通じて、門は人々が出入りする場所で、町を外敵の攻撃から守るための場所でした。

今日は復活節の第四主日ですが、この日は昔から「よき羊飼いの日曜日」という特別な名前で呼ばれてきたそうです。羊飼いという身近な存在で、神の恵みや愛の姿を示してきたわけです。これはヨハネ福音書9章にある、イエス様を会堂から排除し、追放しようとしていたファリサイ派の人々とちょうど反対の立場にあると考えてよいでしょう。聖書は、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしはよい羊飼いである」、というイエス様の言葉をわたしたちに伝えています。

この羊と外見は似ていても、山羊は外敵に対して自分を守る力を強力な力を持っています。例えば、テレビで放映していましたが山羊は外敵が決して登れない絶壁を登って自分を守るのです。長い間、人類に飼いならされた羊は、山羊と外見は似ていますが、まったく逆です。足も弱く目も弱いし、鼻も役に立ちません。モンゴルの高原に住む人たちは羊をたくさん飼って生活しています。そこに、狼などの肉食系野生動物が来て羊を殺します。それも一頭二頭ではなく何十頭も殺すのです。狼は殺した羊を食べず、羊の喉に噛みついて羊の血を吸うだけなのです。一番栄養ある部分だけを奪っていくのです。ですから、こうした無力な羊は、聖書ではよく人間の比喩に用いられています。襲ってくるサタンの攻撃に弱いからです。しかし、弱さを自覚すると本物の信仰に導かれます。パウロも述べています。「神は世の無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者をえらばれたのです。」(第一コリント1:27以下)「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(第二コリント12:9)弱いこと、羊のようであること、それを自覚した時に、命の門である羊飼い、イエス・キリストの大切さわかるのです。

旧約聖書には、ダビデが若いころに羊飼いだったと書いてあります。ダビデがペリシテの巨人ゴリアテと戦って勝ったのも、羊飼い時代に身につけた、野生動物から羊を守る石投げ器の技術があったからです。羊飼いがいなくては肉食動物から自分を守れないように、羊飼いであり命の門であるイエス様がいなくては、襲ってくる狼のような死の力から救われません。また、羊飼いは羊が多くいても名前を付けて知っていて、その問題を熟知し、守ってくれるそうです。

羊飼いであるイエス様が命の安全を保障するのが門であり、道なのです。つまり、原罪とサタンから命を守るほかの方法はないということです。人間の努力も、熱意も業績も無力です。人を迷わせるだけです。自分を努力と業績で判断し、他人を努力と業績で裁くなら、罪の奴隷です。ヨハネの福音書では、偽りの羊飼いとしてファリサイ派などのユダヤ人指導者層を描いています。罪に仕える彼らはユダヤ教の教えに反する者を排除することしか考えません。悪人も善人も同じように扱う、神の愛のことを考えていなかったのです。

さて、ここで、命という言葉が2種類出てきます。命の門の、「命」という言葉も「愛」という言葉が、アガペー、フィリオス、エロスという種類があるように、ギリシア語ではいくつかの種類があります。10節にある命は、ギリシャ語でゾウエイ、超自然的生命(ズーの語源)の事です。また、11節に出てくる「捨てる命」は、ギリシャ語でプシュケー、地上の生命体の命のことです。つまり、イエス様の十字架の死は、地上の生命体の死にすぎないということです。門であるイエス様だけが、敵である死の力から、弱い羊を救うために地上の命(プシュケー)を捨てたのです。プシュケーを捨てると、羊の中にゾーエイ(超自然的生命)が生まれました。それがイエス様の十字架と復活の意味なのです。命を捨てることによって命に生かされる。これは聖書が伝える絶対真理です。

勿論、私たちは十字架にかけられてはいません。しかし、羊飼いの守りのみ手にゆだねるということは単なる神信仰と違います。わたしは自分を変えないで神を信じますではないのです。自分のプシュケーをイエス様に任せ、手放しますという考えが大切です。いわゆる、自己否定ですね。永遠の生命であるゾーエイは己のプシュケーを捨てることによって与えられる恵みだからです。しかし、肉的な人間(信仰を持たない人間のこと)にこれはできません。わたしたちは山羊のように生命力を持つのではなく、弱い無力な羊なのです。逆にいうと、無力であるからこそ、イエス様を裏切った弟子たちのように、己の功績はゼロであっても、命を受け、癒される可能性が与えられているのです。つまり、聖書の世界は逆説の世界なのです。そして、逆説しか、原罪の支配を逃れる道はありません。簡単に言えば、生きよう生きようとすることで、原罪の支配を受けで、実際は死んでしまうのです。死んでもいいと決意するとき、原罪(換言すれば死そのもの)にとってそれが死の死となるがゆえに、支配力は消えます。

羊飼いの話は、本当は命に至らせる門の譬えであり、わたしたちを神の国に導く話なのです。ここから神の国に入れていただかなければ、ほかに入り口はありません。神の国に入れていただかなければ、人生に悩みは尽きませんし、サタンと罪による命の危険から守られません。

こんな実話があります。ある日本の青年が、オーストラリアの神学校に行って学んだそうです。海外生活は初めてのことでしたし、学校でIQテストを受けたのですが、質問の意味が分からなくて成績はゼロでした。そのあとに校長室に呼ばれました。おそらく、日本に帰れ、お前は落第だと言われるだろうと覚悟していました。「お前はいらない。出ていきなさい」と、排除するのはファリサイ人の狭き門の特徴です。選別の法則です。有名な世界の城壁の門のように力で敵を排除する門です。ところが、この外国の校長先生は違いました。「遠くから学びに来てくれてありがとう。みんなあなたを歓迎している。心配はいらない。自分にできることをして学校を楽しみなさい」と言ってくれたのです。いわば神の国に入れていただいたのです。この青年にとっては広き門でした。しかし、深く考えてみると、校長をはじめ学校の先生方には、彼らの規則を捨てる覚悟、つまり狭き門であったのだと思います。捨てる覚悟の愛の門です。人を生かすための愛の門です。この青年はやがて神学校を卒業して日本で伝道したそうです。

イエス様が、十字架によって掟と規則を廃棄してくださったから、パウロやペテロをはじめ、落第生のようなわたしたちにも神の国への門が開かれているのです。神様はきっと、門の外で落ち込んでいる人生最後の日のわたしたちにも、「遠くから天国に来てくれてありがとう。みんなあなたを歓迎している。心配はいらない。自分にできることをして天国を楽しみなさい」言って下さるでしょう。イエス様を通してこの命の門から入れていただくことができます。それを知ったら、わたしたちも弱ったものを励ましていきましょう。排除や選別、批判などではなく、力ない者を受け入れてくれるのが神の命の門です。命の門に入学試験はありません。必要なのは、申込書である「イエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰」だけです。

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