閑話休題

無認可神学校の必要性

現在のキリスト教では、信仰心f深い人が神学校に行って学び、卒業試験を受けて、合格したら按手を受けて、正式に牧師として伝道に出発します。それが、一つの定式になっているようです。ただ、これには時間と費用がかかります。時間のない人、費用の負担ができない人は、いくら信仰心があっても一生牧師にはなれない仕組みが出来上がっています。キリスト教会は、自分で自分の首を絞めているといわざるをえません。逆に、信仰心がそれほどなくても、時間があり、費用負担ができ、リーダー的存在に魅力を感じる人は神学校に行くでしょう。しかし、その人が牧師になって良い伝道をするとはかぎりません。時間がかかると言えば、日本福音ルーテル教会の例ですが、神学校に入るには、まず大学卒業資格が必要です。その後4年ほどの神学研修をつまなくてはなりません。わたしの場合にはもっと時間がかかれました。日本の大学を卒業した後、アメリカのルーテル系神学校で5年間ほど学びました。卒業後にアメリカで按手を受けて、日本にアメリカの宣教師としてくる方法もあったのですが、日本の教会の牧師として働きたかったので、そのまま帰国しました。あの時にアメリカで按手を受けていれば、貧しい中で懸命に伝道している日本人牧師との経済格差は大きかったと思います。それがいやだった理由もあります。自分だけ楽な思いをして伝道したくなかったのです。ところが、帰国すると、日本の教会の首脳陣から、日本の神学校でさらに2年間研鑽するように言われました。そんなわけで、自慢ではないですか、わたしの場合にはなんと、7年間も神学校で学ぶこととなったのです。アルバイトをしながら頑張りましたが、やはり、神学校に行くには時間と資金が必要だと思いました。しかし、これには問題はないでしょうか。神学校を出て、試験に合格して、按手を受けなければ牧師になれないのでしょうか。また、牧師になれなければ、聖餐式や洗礼式、葬儀などは執行できないのでしょうか。つまり、この世で人間が定めた定式を守らなければ、伝道者にはなれないのでしょうか。これは疑問の残る事柄です。宗教改革当時、ルターは全信徒祭司性をとなえました。ルターは人間が作った教育システムの弱点をよく知っていたのだと思います。ですから、信仰心がある人は、緊急の場合に牧師と同じように洗礼を授けても問題ないのです。しかしこのことは、その後の教会制度の厳格化によって、幻の教えとなりました。わたしも40年以上牧師をしていますが、信徒が洗礼を授けたという例は聞いたことがありません。やはり、あの時間と費用と勉強を要求する神学校がネックになっているのです。これが伝道の妨げいなっている限り、多くの人が福音の恩恵を受けるのは難しいでしょう。なぜなら、恵みの出口を、神学校という門が閉ざしているからです。では、初代教会時代はどうだったでしょうか。もちろん、制度化された神学校などはありません。私の好きな聖書個所に、フィリポが授けた洗礼の話があります(使徒言行録8章26節以下)。彼は聖書を読んでいたエジプトの宦官に眼を留め、走っていって彼の車を止め、キリストの福音を伝え、その場で洗礼をほどこしたのです。これを読むと、初代教会の伝道がいかに生き生きしていたか、また人間の建てた制度に頼らず、聖霊の導きに任せていたかを知ることができます。わたしたちは、もう一度原点に戻る必要があるのではないでしょうか。ルターが夢見た全信徒祭司性を実現する、第二の宗教改革が必要ではないでしょうか。いや、これは改革ではないでしょう。なぜなら、人間的教育機関に頼らずに伝道した、初代教会の原点に戻ることだからです。それは、宗教のルネッサンスともいえるでしょう。それにしても、長い間学問を強いられた私ですが、学問や既存の神学校を否定するものではありません。時間と資金に恵まれたものがそのコースをたどることに問題はありません。しかし、人間組織とは関係ない、無認可の神学校があってもいいはずです。そして、あのフィイリポのように、無学な者が聖霊の導きを受けて洗礼を授けても悪いはずはありません。イエス様ご自身でさえ、神学校を卒業してから伝道したわけではありません。そんなわけで、こちらの印西インターネット教会でも、無認可神学校を開設して、キリスト教教理をわかりやすく、時間や資金の負担なしに教え、伝道の使命を与えられた人がフィリポのように活動できる道を開いていきたいと思います。だいたい、どんな神学校でも、それが神様ご自身の認可を受けているかどうかは人間には判断できないものです。わたし自身は、聖書に照らし合わせて、聖霊に導かれた無認可の神学校がとても必要だと信じています。

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