閑話休題

「NOと言える日本人」

世界陸上の試合で、やり投げの北口榛花選手が優勝しました。靴に使用するピンの問題で日本人選手が差別を受けたと報道されました。それは、通訳も同行できない検査場で、自己主張できなかったことも理由の一つに挙げられています。これは、人ごとのようには思えませんでした。わたし自身は、日本の大学を卒業してからアメリカに留学したのですが、そのころはまだ、「NOと言える日本人」ではありませんでした。あるとき、スウェーデン系の家庭の晩さん会に招待されました。日本では各自の料理が目の前にセットされていますが、アメリカでは食器と皿が置いてあるだけでした。食事会が始まるとさまざまな料理が大皿に盛られて回ってきます。わたしは、日本式に考えて自分の食べられる分だけ取りました。しかし、ひと時が過ぎるとまた大皿が回ってきたのです。ホストの方がどうぞと言って勧めるので、NOとも言えず、また自分の皿にとりました。そして、皆と歓談しながら食事を済ますと、また、大皿が回ってきたのです。これには、閉口しました。しかし、ホストがまた勧めるので、自分の皿に少しだけとりました。これですべて終わったと安心していたら、最後はデザートの時間でした。小さなショートケーキくらいなら食べられたと思いますが、これはホストの方の自作のカボチャのパイでした。外人向けですから、厚さも日本の比ではありません。すでに満腹のわたしにとって、これを食べることは死刑宣言に等しいように思われました。しかし、「NOと言える日本人」ではなかった自分は、泣く泣くこの巨大な代物を胃袋にむりやり詰め込んだのでした。後で考えたら、NO THANK YOUと言えば済むことでした。その点では、聖書の中の人びとには、忖度という意識がなく、その場に応じて明確にNOと述べています。わたしが思い起こすのは、異邦人伝道にかんするエルサレム使徒会議でのことです。これは使徒言行録の15章に詳しく書いてあります。その当時のクリスチャンの中には、モーセの習慣に従って異邦人も割礼を受けなければ救われないと主張するものがいました。特にエルサレムにいた以前のファリサイ派の重鎮たちがそうでした。それに対して、ペトロがNOをとなえ、「自分たちも負いきれなかったくびきを異邦人に負わせて神を試みてはいけない」と反論したのです。そして、同行したパウロとバルナバも異邦人の回心が神からのものであることを証ししました。エルサレム使徒会議の代表だったヤコブはその訴えを認め、異邦人には簡単な規則を課すだけでよいと結論したのです。もしここで、ペトロやパウロたちが、NOと言えなかったら、その後のクリスチャンたちは、ユダヤ教の信徒と同じようになってしまったことでしょう。歴史を変えるのは、神に示されたNOです。日本人は世界の諸民族の中でも優れた特性を持っています。しかし、若いころのわたしもそうであったように、忖度の気持ちが強くて、なかなかNOと言い切れません。ですから、神と真理を信じて、NOであるものはNOと言える勇気が与えられるように願っています。

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