キリスト教の救済論について学ぶ読む説教
「百分の一だって大切なんだ」 ルカ15:1-10
イエス様は多くの教えを例え話で語りました。それも、聴衆を意識してのことです。あるところで選挙がありましたが、落選した候補者の多くは、決まり文句をどの場所でも、どの年代の人にも語っていたそうです。イエス様は違いました。どのような人が聞いているかということ、つまり聴衆を念頭において語ったのです。
では、今日の日課の聴衆とは誰でしょうか。聖書には、多くの徴税人や罪人が集まったと書かれています。徴税人は、支配国ローマの税金を取り立てる「裏切り者」でした。また「罪人」と呼ばれていた人々は、安息日などの律法などを守れない「律法違反者」のことでした。つまり、彼らは、社会の底辺の人たちでした。ですから、イエス様は、社会の底辺で苦しんでいた人々を対象にして語り掛けたのです。それらの人々はイエス様の近くまで集まってきてイエス様の教えを聞こうとしていました。きっと、苦しい生活の中で心に渇きを覚えていたのでしょう。
しかし、別の聴衆として、社会の上流にいる人々、つまり、律法学者やファリサイ派の人々は、相手にも聞こえるように大きな声で不平を漏らしました。なぜならば、イエス様が罪人をサポートする側の人だったからです。特権階級であった彼らには、罪人に対するイエス様の愛は理解できなかったのです。そこで、彼らはイエス様に対する批判をはじめました。当時の一般常識では、罪人の側に立つことは、品行方正な人々には考えられないことでした。アパルトヘイト、つまり分離政策はこのころにも既にあったのです。これはイエス様の時代に限りません。南アフリカでも、アメリカでもアパルトヘイト政策をとっていました。黒人と白人はバスに乗っても席は違うし、建物の中のトイレも別でした。アメリカの元大統領であったトランプ氏がアメリカとメキシコの国境に大きな城壁を作るべきだと発言したことがありましたが、これもアパルトヘイト政策に似ています。イエス様の時代の社会も同じようにアパルトヘイトでしたが、そこでは、人種であるよりも、「正しい人々」と「正しくない人々」を分離していたわけです。いわゆる、宗教的な分離政策ですね。
そういう社会背景の中で、イエス様は一つの例え話を用いて、神の愛と平等を伝えました。このたとえ話に登場する羊は、およそ動物の中でも一番無防備と思われる存在です。小動物すら外敵から自分を守るために集団で威嚇するという能力を持っています。ところが羊は、群れで威嚇することもできません。メーメー鳴くだけです。羊が崖に向かって一列に進んでいくと、崖から一匹ずつ落ちても危険を察知できないという愚かな動物です。
さて、イエス様のこの譬えの中の強調点は、99対1という割合のことだと思います。99という大多数は、聴衆の中では、律法学者やファリサイ派の人々のような、自称「正しい人々」を示していたと思われます。わたしたちの社会でも、「自分が正しいと思う」人々が大多数です。あるいは、「自分は正しくないと思う自分は絶対に正しい」と思っているのです。そこには、自分への疑いがありません。
それはそれとして、例え話の中の迷い出た1匹の羊とは、原語のギリシア語では、アポルオーと書いてあります。これは単に迷い出ただけではなく、社会から置き去りにされているとか、救われないで滅びるという意味です。あるいはアポルオーの派生語であるアポルオンになると、悪魔という意味にもなります。また、羊が孤立していたという事は、神との交わりを失ってさまよっていたことを示します。ですから、この迷った羊の例でイエス様は、徴税人や罪人を暗示したことは確かです。彼らは悪魔のように嫌われていました。いじめや軽蔑の対象だった人々です。しかし、イエス様は99パーセントの人びとから嫌われていたこの羊には、見つかるまで探してくれる羊飼い、見つかったら背中に背負ってくれる羊飼い、家につれ帰ったら近所の人を集めて盛大な祝賀会を開いて喜んでくれる羊飼いがいることを示したのです。愛のない社会において、まだ神の愛が残っていると伝えたのです。ですから、イエス様の伝道の基本点はまさに、失われた魂に対する、神の無条件の愛を示すことでした。「人の子は失われたものを探して救うために来たのである」(ルカ19:10)と書いてある通りです。
その後で、例え話の核心部分を語りました。つまり、悔い改める1人の罪人(正しくない人)に対して、悔い改める必要のない99人の(正しい人々)より多くの喜びが天国うまれるというのです。まさに発想の逆転です。それは、自分を正しいと主張していて、実はアパルトヘイトをやっていた人々への痛烈な皮肉だと考える学者がいます。確かに、聖書は一貫して、この世に「正しい人々」はいないと教えているわけです。
次の、なくなった銀貨についての話も同じです。ちなみに、ドラクメとはギリシア通貨の呼び方で、ローマ通貨のデナリオンと同じ価値だそうです。つまり、一日の労働賃金に匹敵するものです。1円や5円ではないので懸命に探すでしょう。そして見つかったら、近所の人を集めてお祝いがあるのです。共同の喜びです。この話の要点は、死んでいたようなもの、あるいは悪魔に取りつかれていた者が、救い主の助けで復活するという方向転換がきて、神の家に帰ってくるときに、喜びが満ちるということです。教会というのはまさに、この喜びの場所なのでしょう。大人数が集まるから必ずしも良いというものではなく、たった1匹の少数でも、神が支え、運び、喜びをあふれさせる場所が教会だと思います。
わたしたちは、生まれつきの罪、つまり原罪がありますから、自分を「正しい人々」の一人と見やすいものです。「正しくない人々」の側にいるとは認めにくいわけです。聖霊の働いなしには不可能なことです。しかし、イエス様は罪人を支える側の人だったのです。99匹の側に立つならば、イエス様とは無関係になってしまいます。では、私たち自身はどちらの側にいるのでしょうか。自分が99匹の多数派に属するか、それとも悔い改めた1匹のほうに属するかは、その人の持つ喜びで計測することができます。律法学者やファリサイ派の人々は批判をしましたが、喜びを持っていませんでした。しかし、神が望むのは批判でなく、愛と喜びなのです。
さらに、ここで大切なのは、1匹の羊が悔い改めたという事です。イエス様から見たら律法学者やファリサイ派の人々さえ、迷い出た羊です。ただ彼らは悔い改めていません。
「悔い改め」とは反省ではなく「方向転換」のことです。神の愛と喜びから離れていたところから、もう一度神の喜びに戻ること、これが方向転換です。自分では否定していたことを肯定するのも方向転換です。ただ、果たして人間は自分で悔い改めできるのでしょうか?
できません。これは人間には無理です。悔い改めには仲介者、羊飼い、がどうしても必要なのです。旧約聖書にある記事ですが、出エジプトの際に、モーセが神様の怒りをなだめた例があります。このモーセの姿は、イエス様の姿の予兆です。十字架上のイエス様は言いました、「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカ23:34)実は、例え話の中心は羊ではありません。中心点は羊飼いです。使徒書にはパウロの体験が書かれています。パウロは、「イエス・キリストは罪人を救うために世に来られた」と証言しました。つまり、イエス様こそ羊飼いであることを悟ったのです。たった1人でも、失われた者、神から離れたものを助ける仲保者が来ると理解した時に、ファリサイ派の律法主義や偽善ではなく、キリスト・イエスを中心とした信仰が 成り立ちます。もとファリサイ派であったパウロもそれを経験しました。
さて、イエス様は、神からもっとも遠く離れ、悪魔の支配に置かれた我々を、再び神のものとしてくださるために十字架の痛みを負い、復活された尊い羊飼いです。教会ではこの羊飼いを神の子として讃美します。罪からの救いは、羊飼いであるイエス・キリストにしかないからです。ですから、神教ではなく、キリスト教なのです。すべての問題が解決したら、救いの喜びに入れられていきます。そして、やがて自分も、百分の一の羊を探し求める人となり、羊飼いとなり、仲保者とされていくのです。