今週の説教

小さなものを感謝する信仰について学ぶ説教

「小から大へ」           ルカ16:1-13

今日の旧約聖書の日課は、「コヘレトの言葉」です。以前の口語訳聖書では、「伝道の書」と言いました。英語ではエクレシアスティーズ。ルターが訳した聖書では、「説教者ソロモン」となっています。ちなみにコヘレトとはヘブライ語で「集める者」という意味です。ソロモン王が多くの共同体をエルサレムに集めたとか、格言を集めるという意味もあるようです。ソロモンは賢者で知られていましたから、賢者の書ともいえます。しかし、結論は賢者の自己否定でした。「人間がどんなに追及しても悟ることはできない」賢者は何も悟らない、神の世界だけが確かだというのが結論です。実際に、それが本当の賢者かもしれません。この書の優れた点は、上からの問題提起をしないということだと言われます。ある神学者はこう言っています。「神の言葉として出来上がったものが天降ったのではなくして、弱い血と肉をそなえた人間が苦しみ悩んだ末、諸種の問題を解決し、神に到達した血と涙の記録だから尊いのだ。」

今日のイエス様の喩も、上からの目線ではありません。人間の苦しみから出発しています。ただそこに、神の教えを含ませているので、最も難しい喩の一つと言われています。聖書には理解の難しい部分があります。それの対策は、その部分は宿題として置いて、比較的易しい個所から進むことです。例えば、小さな事に忠実であれ、という教えは、マタイ17:20、「カラシ種のように小さな信仰が、山を移すような大きな働きをする」と書いてあります。これは理解しやすい。イエス様の教えは一貫していて、常に小から大へです。

さて、なんで、コヘレトの箇所が「不正な管理人」の話と同じ日の日課なのでしょうか。弱い血と肉をそなえた人間が苦しみ悩んだ末に、神のほうに向きなおる、つまり悔い改めではないでしょうか。しかし福音書の、不正な管理人のずるい行為を、主人はどうして処罰して止めさせないのでしょうか。不条理ともいいます。

これに似た例は過去にありました。青森県の住宅管理公社の経理担当者が、所謂、「不正な管理人」であって、チリ人のアニータという女性のために、14億円以上を横領したことです。犯人は逮捕され、14年の刑が確定しました。考えてみると、1億円分の償いが1年分の刑でこれも理解できないことです。11億はアニータさんに渡ってしまい回収できなかったわけです。まさに「不正な管理人」の不可解な結末です。その犯人も既に刑を終えて、刑務所から出ています。ここで、彼がアニータさんの所に行って暮せば、11億円を楽しむことが出来るし、アニータさんはこの事で有名になりさらに財産を増やしているかもしれません。普通の人間が14億を稼ぐには、年間500万円でも280年かかるわけです。それを、可能にしてしまった神の世界は、不条理に見え、理解できない。コヘレトの記者が言うように、「太陽のもとにおおきな不幸があるのを見た」(コヘレト5:12)

イエス様の喩では、財産の不正管理がバレてしまい、主人から追及された。そして仕事を失うことになった。ところが、「不正な管理人」は不正をできるくらいですから、賢いのです。勿論、神のように賢くはない。しかし、主人である、神の力を借りて生きていたものですから、悩んだ。手にはペンしか持ったことがないから、力仕事は自信がない。乞食もプライドがゆるさない。イエス様の人間描写はおもしろいものです。人間の弱さをついています。聞いた人は、きっと笑ったでしょう。神の庇護のもとに生きている時は何も心配しないが、神に見放されてしまうと悩んでしまう。これはある面でわたしたちの姿です。しかし、顔が明るくなります。解決策を見つけたからです。何と、神から見放されても、友達をたくさん作っておけば、助けてくれる。神の助けがなくても生きていける。そういう誤った自信がでてきたのです。そして、主人に借金のある人々を呼んで、証書を書き換えて、安くしてあげたのです。勿論、彼らが感謝したのは当然でしょう。「不正な管理人」は自分がまだ失っていなかった財産管理の特権を使って、人々の負債を軽くしてあげたのです。自分のものではない特権を活用すること、それは神から人間が預かっているタレントと活用することとほぼ同じです。マタイ25:26、主人から預かった1タラント(300万円)の財産を増やさなかった者は「怠け者の悪い僕だ」と呼ばれている。特権を活用しなかったからです。「自分のように才能のない者は用いられる必要がない。」これでは、いけない。

実は、その管理人の不正を主人である神さまは知らないはずがない。きっと知っているわけです。人間の悪いところ、つまり「不正な管理人」であることを知っているのです。わたしたちの常識では、彼は即座に処罰されるべきです。無断使用、横領です。わたしたちなら我慢できないでしょう。しかし、自分がもしかしたら「不正な管理人」であり、自分がもしかしたら神の目からは、青森県住宅管理公社の経理担当者のようになるかもしれないと何人が理解するでしょうか。弟子たちは理解したでしょうか。せいぜい、自分は悪いことをしていない、あるいは、少し悪いのを認めるが、14億円横領のようなことをしていない、人を非難するのもいいかげんにしてほしい、となるでしょう。心が神に向かない。神に向くことが悔い改めですから、悔い改めがおこらない。

ところが、イエス様の喩の中の主人は、意外なことに、「不正な管理人」を褒めたというのです。ですから、イエス様はこの世の子は、光の子より賢いと言います。光の子は賢くない。安心しきって心が鈍っている。あるいは、神の権利を活用せず自分で責任をとってしまう。イエス様の言葉は、この世の賢さを褒めているように聞こえてしまう。だから、難しい。おそらく、弟子たちも、この世の人々を信仰的に見下していたものもいたでしょう。だが彼らは、主人をおそれて、対策している。光の子のだれが主人に対して負債があると感じているか、誰が自分の事を「不正な管理人」と理解しているか。

そこで、イエス様は、言いました。悪い手段の金でさえ用いて、友人を作りなさい。ここまでは人間社会の事。ここを境として、神の事がでてきます。社会を褒めているのではなく、神へと弟子たちの心を向かせている。不正であっても、人の苦しみが軽くされたのは事実だ。助けられた人は、感謝するでしょう。その感謝のために、弟子たちは永遠の住まいに迎えられる。つまり奉仕です。これは、清いとか汚れているとかの区別をしない。なぜなら人間の富は、結局は正しくないというのが根本にある。金は金にすぎない。ここで最後に出てきている二人の主人とは富と、神です。人は優先順位を選ばなければ、悔い改めはおこらず救われない。神を第一とすること。

ここの教訓は、「不正な管理人」は不忠実だが賢い。逆に、誠実な弟子たちのような光の子は、賢くない。小さな事に忠実でありなさい。きっと、大きな事もまかされる。この世の富は結局、正しい富などない、しかしそれを不正だからと言って、避けたり、嫌ってはいけない。神の求める人生とは、実は小さいものに忠実であり続ける姿勢である。諦めない。捨てない。ここに対する態度を神は見ておられる。この世の子の悪賢いものではあるが、そこからも学びなさい。与えられた、タラント(主人の資金)これを活用しなさい。神に褒められる生き方をしなさい。失敗を恐れず、小さな信仰でよいから、神を信じて行動しなさい。コヘレトのように、人間には理解できないことが多い。それでよい。カラシだねのような小さな信仰でよい。小さなものを感謝しなさい。マタイ17:20、「カラシだねの信仰が、山を移す」。ことが出来る。それがあなたの宝だ。先ず小さなあなたの宝に忠実になりなさい。あとでそれが実に大きいものであると発見するでしょう。このようにイエス様は弟子たちに諭し、わたしたちにも諭しているのです。

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