菊川ルーテル教会伝道説教
「立派でない者が歓迎される国」 マタイ21:23-32
特別の祈り
愛なる神様、あなたはわたしたちの弱さや失敗をすべてご存知です。どうか、それらを克服するための恵みをお与えください。わたしたちを傷つけるあらゆる困難から守り、あなたの御子、主イエス・キリストによって、わたしたちを救いに導いて下さい。
讃美歌21; 462番、197番、433番、81番、88番
最近のアメリカでは、若くて美しい独身女性の入国審査が難しいそうです。それは、そういう女性がアメリカ国内にきて結婚して子供をアメリカで産めばアメリカ国籍になってしまうからです。ですから、わたしたちがアメリカに行って空港の検査が簡単ならば、若くない、美しくない、すでに結婚しているのかのどちらかです。
さて、神の国の入国審査はどんなものでしょうか。それには、まずパスポートがあるかどうかです。それは、神への信仰心でしょう。信じて洗礼を受けていればパスポート所有です。しかし、ルターが言ったように、異教徒でもだまして洗礼を受けることはできるが、信仰心はないのです。また、信仰の先祖のように考えられているアブラハムも洗礼は受けていませんが天国への入国はできているようです。
今日のテーマは、天国への入国資格についてです。これがハッキリしているを、どんなことがあっても安心です。宗教改革500年記念行事でルーテル教会はカトリック教会と長崎で記念礼拝を持ちました。そのときに長崎で殉教したカトリックの信徒たちのことを知りました。彼らは天国(パライソ、パラダイス)に行けることを信じ、どんなに残酷な拷問を受けても、天使のような顔をしていたそうです。その当時に宣教師がローマに送った報告書には、日本の信仰者の信仰はローマにも見られないような純粋なものだと書かれていたそうです。
今日のエゼキエル書には「悪人であっても、正義と恵みの業を行うなら、死ぬことはない」(エゼキエル書18章21節以下)と書かれています。これが、天国への入国パスポートなわけです。ただ、これを読むときに注意したいことがあります。「正義と恵みの業」という部分です。ある専門書にはこう書いてあります。「旧約聖書で正義と訳されている単語、セデク、は本来、現代用語の正義とはほとんど対応していない。中略 この意味は義であって、それは神の本質、意思、契約の実現という、特殊な宗教的概念である。キリストにおいて神の義が功績なしに我々に贈られると同時に、自分の力では神とのただしい関係をもつことができない。」これの要点はこうです。正義や義というのは神の御心の実現に関することで、人間の正しさによるものではなく、神からのプレゼントである。わたしたちがこのプレゼントである義を受け取るには、「どうぞお与えください」祈って手を差し出すだけでいいのです。いただいたプレゼントが、天国へのパスポートです。すべての中心は、人間の行為ではなく、神の恵みだということが、聖書に一貫しています。だから、今日の福音書の日課でも、イエス様は、神だ神だととなえながら、実は人間の権威を重要視していた祭司長たちに「天の権威なのか、人の権威なのか」を逆に質問しました。つまり、彼らが人の権威で行動していたこと、そこには神の権威に対する信仰、つまり義が、欠けていたことが、イエス様にはわかっていたのです。
そこで、彼らに、「二人の息子」の譬えを語りました。その背景は、人間の正義なのか、神の正義であるセデクなのか、という二面性についてです。この話の、兄の方は悪い人々の象徴です。「いきます」と言っていかなかった弟の方は、表面的にはよい人である祭司長たちのことですが、実際は神の命令に従っていません。人間中心の考えだったからです。兄の方が、考え直したというのは、悔い改めたということです。聖書の悔い改めは、一般社会が考えている反省や懺悔ではなく、神様の愛の方に向きを変えて、今までの生活様式や考え方をUターンすることです。これ自体が、自分ではできないことであり、神の働きともいえます。自分が、「ああしよう、こうしよう」と考えて心配する前に、神様は自分に何を望んでおられるのかな、と思うようになったら、Uターンができていることであり、悔い改めができていることです。ですから、イエス様は、神様への信仰をいただいて悔い改めた「徴税人や娼婦」たちのほうが先に天国に入るだろうと言ったのです。今日の、使徒書の日課であるフィリピ信徒への手紙にも、キリストは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ信徒への手紙2章8節)と書かれています。この従順と訳されている単語が、ギリシア語のヒュペーコースですが、これは召使の意味です。そして、もともとはヒュペルという言葉があって、それは「身代わりになって」「代償として」「誰かのために」という意味です。これはまさに、聖書の言う正義であり義なのです。イエス様は、神の僕として、時には反抗しても、悔い改めて神の御心に従えば、必ず天国に迎え入れて下さると教えたのです。天国への入国許可は、自分は立派だと思っている人より、若くてきれい行いが良い人より、むしろ、立派でもなく神の御心に違反したり、イエス様が言ったように、金のために売春したり、悪徳商法にように税金を巻き上げている人たちの方が神の国にふさわしいということです。ルターは500年前に、最初はよい人になろうと努力しましたが、神様が求めているのは、自分の罪を認めて神の与える救いを信じることだとわかって救われました。立派でない者が天国に受け入れられることを悟ったのです。わたしたちも、人生で様々な失敗、悪い行い、神への不従順があるでしょう、しかし、悔い改めて、神の御心に従うならば救われ、天国への入国が保証されるのです。
むしろ、自分たちは正しく、救われるべきだ、罪人は罰せられるべきだと考えていた祭司長やファリサイ派の人々はこれを理解できなかったのです。彼らは神の僕であり仕える立場だったのに、自分たちが決定権と所有権を持とうとしたからです。
そうならないために、自分のためには多くの事をなんなくやっているのに、神のためには負担を感じる生き方を改めましょう。喜んで僕としての勤めを成し遂げましょう。自分の論理や、理屈ではなく神が聖書を通して教えていることに耳を傾けましょう。100人が100人右が正しい道だと言っても、聖書に左だと書いてあれば聖書を信じて進みましょう。ですから、どんなことがあっても喜びなさいと聖書は教えています。悪い人であっても、悔い改めできていない人であってもまだ神は見捨ててはいません。救いは「行いによるのではなく、恵みによるからです。」(ローマ11:6)行いがどんなに悪くても、わたしたちの善悪によらず、神の憐れみによって救われているのです。「だから、救いの達成をつとめなさい。あなたがたの内に働き、御心のままに望ませ、行わせてくださるのは神です。」(フィリピ2:12)と書かれています。