今週の説教

別れの時にどう考えたら良いのかを学ぶ説教

「離縁」             マルコ10:1-16

秋は果物の季節です。千葉県の梨の生産量は屋内で最も多く、その栽培は江戸時代にまでさかのぼるそうです。その梨について知人の中国人から面白い話を聞きました。中国では、一つの梨を二人で分けて食べることはしないそうです。何故なら、中国語で梨を切るとは分梨(フェンリ)であり分離(フェンリ)と発音が似ているからだそうです。これも別れを避けたい人間の心情からきたものでしょう。

さて、イエス様とイエス様に反対する人々の間には色々な議論がありました。そして、今回の福音書の部分ではそれはまさに、別れの問題になっています。

その当時のユダヤ教の教えであるタルムードには、この離縁についての問題がおおきく取り上げられ、ユダヤ人の間でも、学者の間で議論が戦わされ、どんな条件があれば離縁が認められるかが大関心事になっていたと記録されているそうです。離婚は「姦通等の不品行だけに限るべきだ」と厳格に解釈するのがシャンマイ学派でした。それに対して、「料理の食材を焦がす」ことまで含めて広く解釈するヒレル学派がありました。どちらの考えに人気があったのでしょうか。それは、広義の解釈を与えるヒレル派でした。この解釈ならば、夫が妻を嫌になればいつでも離縁することが出来たからです。離婚したい男性は、いつも台所や家の中をチェックしていたかもしれません。

離縁につては、日本では戸籍法第四章七節に離婚の項目があり、法的に認められた権利とされています。では世界全体が同じかと言えば、違います。この点に関して調べてみると、「一般的に離婚を厳しく戒めているのはキリスト教圏で、特に東方正教会の諸派やカトリックの信者が多い国では未だに離婚が認められていないケースが多く、イタリア・アイルランド・フィリピンなどは離婚が認められていない国として有名です」、とあります。

今回の箇所で、イエス様のところに来たファリサイ派の人々はイエス様から学ぼうとしたのではなく、イエス様を試みるためにやって来たのでした。台所をチェックするヒレル学派と同じです。ここで使われている、試みるという言葉は原語ではペリラゾーであって、興味深いことに、マルコ1章13節でサタンがイエス様を試みるときにも用いられています。ですから、試みの特徴は、わたしたちをイエス・キリストの愛の福音から引き離してしまい、台所をチェックするもの、あらさがしをする者に変えてしまうことです。あらさがしをしてしまう人間性の背後には、サタンの策略があると考えてもいいでしょう。

ファリサイ派の人たちの試みにたいして、イエス様はそうした策略には応じないで、もっと根本的な問題を明らかにします。その第一は、3節のモーセ律法に関する問いかけであり申命記24:1以下の引用でした。そして、次には創世記1:27と2:24から引用して、申命記24:1と対比させます。聖書と聖書を対比させる事によって、イエス様はファリサイ派の人たちの試みを逆に利用して、神の根源的なご意思を聖書を通して明らかにしています。

創世記の引用に関して、イエス様は8節と9節で新しい解釈を与えます。それは、当時の律法学者たちの理解より厳しいものでした。はじめに申し上げたように、当時の学者たちは、相手に過失があったら離婚して良いと強調していました。相手の欠点へ焦点をあてた考え方です。イエス様は、どんな問題があったら離縁すべきだろうかという、重箱のすみをつつく問題や台所チェックという視点から、大転換させて結婚の意義に関する神の根源的意思に焦点をあてます。視点を転換させます。これは、パラダイムシフトともいいます。

では、パラダイムシフトさせて、イエス様はわたしたちの眼をどこに向けさせたかったのでしょう。勿論、神の限りない愛です。罪人を捨てることのない神の愛です。相手の性格や欠点に左右されているときには、条件付きの愛でしかありません。それは、すべての根本である神の無条件の愛を忘れているときです。そして、それは、誰にでも起こりうることなのです。一般的に離婚は悪いことだという社会通念があるかもしれません。バツイチという表現があるくらいです。しかし本当にバツなのでしょうか。離婚した人間がバツで、まだ結婚している人がマルなのでしょうか。これも不可思議なことです。イエス様は、離婚自体が悪いと言ったわけではありません。相手を自分の持ち物のように考え、支配し、いらなくなったら物を捨てるように、その後の相手が困っても知らん顔をして離縁すること、その人間性こそが罪だ、と言っているわけです。イエス様はさらに厳しい結婚の規則を押しつけたのでもありません。イエス様は、福音を説かれたということです。13節以下の子供の問題でも明らかなように、小さき者、弱い者をつまずかせてはいけないというのです。ですから、身勝手な離婚をイエスは禁止されたのです。

10節以下では外部の者に対してではなく、弟子に対する親密な教えがあらわれています。ここで注目すべきは女性から男性を離縁する例です。これはユダヤ教ではなくローマ法、つまり世界的視野を基準としています。また、こうした事柄が説明されていること自体、離縁についての問題が多く発生していたことが推測されます。そして、多くの人が離婚の後の再婚は適切かどうかという疑問をもっていたものと思われます。イエス様は答えました。再婚は姦淫に等しい。ただこれは、離婚の禁止や離婚の許可をしめしたものではなく、新しい規律や律法でもないのです。事柄の根本原理に触れたものです。つまり、神の意志と限りなき愛、その愛への信仰を失うのが姦淫となるというのです。旧約聖書でも、神への背信が「姦淫」と同じ意味だと書かれています。愛の基準から外れるのが姦淫なのです。イエス様は離婚禁止とはいいません。パウロも第一コリント7:15で神を信じていない者については、「結婚に縛られていません」と明言しています。ですから、「神があわせたものを人は離してはならない」を、状況のまるで異なる現代に適用して離婚を禁止したり、法律化するのは、あのパリサイ人と同じ過ちになりかねないものです。

時代は変遷しました。ある人によるとこのように言われています。「離婚の自由を最初に唱えたプロテスタント信仰者は、イギリスの詩人ジョン・ミルトンとのことです。ミルトンは「失楽園」を書いた人ですが、ピューリタンの信仰を持ち、信教の自由、言論の自由と共に離婚の自由を唱えました。彼はイエスの言われた言葉を真剣に考えました。結婚愛が全く失われている場合には、それは神からの結婚とは言えないがゆえに離婚が認められるべきであるという結論に至ったのです。」これもその時代に一つの考えとして意味があったと思います。ただ問題は、「結婚愛が全く失われている場合」という見方です。5節にあるように、人間の心は頑固というか、かたくなになるのでと、イエス様は説明し、申命記10:16を引用します。心を柔らかく保つべきなのです。時代は変わっても、人間の心の頑固さは変わりません。それを当然としてはいけないでしょう。わたしたちは、むしろ、心を柔らかく保ち互いに「命の恵みを共に受け継ぐ者」として生きるべきなのです。

この教えは結婚に限られたものではありません。すべての人間関係で、第一ペトロ2:18~25節に書いてある、「神に従う謙虚さ」を模範にしたいものです。そして、根本原理として神が定めた人間関係の回復は人間ができるものではなく、主イエス・キリストの十字架という、愛のとりなしが必要なのだということを知りたいものです。それは人間の理想ではなく、神の贖罪の実りだからです。離婚することが罪ではなく、人を大切にできないこと、善良な主人と、無慈悲な主人を分け隔てて裁く立場に立ってしまうこと、それこそが原罪なのだと思います。これは誰にでも起こりうる共通の罪です。

自分の内側や、自分の外側の罪に囲まれたこの世で、離婚した人にとっても、やっと結婚を維持している人にとっても、そして社会から少しでも落ちこぼれた人にとっても、この社会はあまり居心地のいい社会ではないと思います。ただ、どうでしょうか。苦しみ者と共に、傷つき悩む者、弱い者とイエス様はいつも一緒にいてくださります。イエス様はわたしたちがどんな時にも決して忘れてはならない神の限りない無条件の愛を示してくださる方なのです。

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