今週の説教

静岡県菊川ルーテル教会での伝道説教

「死の死、終わりの終わり」  マタイ5:1-12

今日は亡くなった方々を覚える全聖徒主日でして、聖書日課は山上の垂訓として知られている祝福の箇所です。おかしいと思いませんか。全聖徒主日と言えば、日本のお盆と同じですよ。これまでに亡くなった方々を偲ぶときです。もっと、しめやかな聖書個所がいいんじゃないですか。例えば、黙示録の言葉です。「彼らは、もはや飢えることもな渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる子羊(イエス様の事)が彼らの牧者(世話人)となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」(黙示録7:16以下)

ところが、マタイ福音書の方は、各行が「幸いである」という言葉で締めくくられていますね。これを書き直してらどうでしょうか。自分に自信がなくて不安な人は幸いである。自分が好きだった人が死んだり、直らない病気で悲しい思いをしていたら幸いです。迫害されて仕事を奪われ、家族もいじめられたら幸いです。こんなことは、普通は「幸いだ」とは言えませんよね。つまり、わたしたちと違った死生観を聖書は持っているのです。生きることの価値観、死ぬことの意味、これはわたしたちの普通の考えと聖書では違います。だから、聖書の死生観を勉強することによって、幸せという考え方に違いが出てきます。そして、亡くなった方を覚える全聖徒の日も、違った意味を持ってきます。

ちなみに、日本で昔からある死生観はどんなでしょうか。

浄土真宗の親鸞聖人は言っています。自分は悪い人間だから、極楽にいけないとおもってはならない。人間はもともと煩悩をもっているから、悪でに決まっていると思った方がいい。また、自分は正しい人間だから極楽に行けると思ってはいけない。自分の努力で極楽にいけるものでもない。また、浄土真宗の中興の祖と呼ばれた蓮如上人は、人間の一生は幻のようなものだと言いました。朝には紅顔の美少年であっても、夕方には白骨の骸骨になっているようなはかない存在なのだから、来世のことを考えて祈っていかねばならないと説いたのです。近年の死生観はどうでしょうか。高見順「この世ともうお別れかとおもうと、見慣れた景色が、急に新鮮にみえてきた。」瀬戸内寂静「わたしの死に様は果たしてどんなものか。どんな変死にせよ、やはりあまり人の目に無様でない死に様を願うのは、まだ私がしゃれ気のある若さの証拠であるかもしれない。」この瀬戸内寂聴さんの言葉を読んで、わたしの母のことを思い出しました。前にコロナにかかってやせてしまったときに、在宅治療してくれるお医者さんに、「痩せてこんなに皺だらけになりました」といったら、「百歳を過ぎて皴のない人はいませんよ」と笑われたそうです、わたしの母も、寂聴とおなじようにしゃれ気があるのかもしれません。それはともかく、昔の日本人は来世のことを思い、現代の日本人は自分自身とか周囲のことが気になるようです。

 

ウクライナの戦争、パレスチナの戦争と続いています。この状況を見れば、悲しみと苦しみばかりです。こんな時に、「苦しんでいる人は幸いである」と言えるのでしょうか。イエス様はわたしたちと違った死生観を持っていたと思います。その死生観を理解するのに参考になるのが、マザー・テレサの「死者の家」です。名前の通り、これは生きる望みのない人たちが最後の時を過ごすホスピスのようなものです。わたしは仕事柄、ホスピスに入院している人をお見舞いに行ったこともあります。その次の日に、家族から電話があり、「昨日はお見舞いをありがとうございました。母は、あの後とても安心して、昨夜安らかになくなりました」と聞きました。

マザー・テレサの「死者の家」に入っていた人の記事が残されています。そこにはこう書かれています。あるとき、インドのカルカッタっで排水溝のゴミの中から、体の半分を虫に食べかけられていた男性が救われました。その人は、「死者の家」に運ばれ、体を洗ってもらい、清潔な服に着替えさせていただき、温かい食べ物を与えられ、シスターたちから愛情のこもった看護を受けて亡くなったのです。そうした一人が生前に語った言葉が残されています。「わたしは道端で動物のように暮らしていましたが、愛と看護の手に囲まれ天使のように死のうとしている。」ここに彼の死生観が現れています。そして、この死生観は、山上の垂訓でイエス様が語ったものと同じではないでしょうか。

普通の死生観では、自分や周囲のことが気になります。ところが、マザー・テレサやシスターたちの愛情深い看護を受けたひとは、そこに天国を感じたのです。天使のように死のうとしているというのが、そのことです。死んでから天国ではない。ボロボロのゴミのように路上で死のうとしていた自分すら、神の無条件の愛に包まれていることを、シスターたちの愛情深い看護で悟ったのです。こうした例は、インドでは無数にあります。もともとはヒンズー教の国だったインドは、2011年にはヒンズー教が約8-パーセント、キリスト教が2.3パーセントでした。最近は増加しています。

「ル・ナードゥ(Tamil Nadu)州、ゴア(Goa)州などの南部諸州 により多く集中している。北東部に位置する小さな3州には、次の通り大規模なキリスト教 徒多数派が存在している。ナガランド(Nagaland)州(90パーセント)、ミゾラム(Mizoram) 州(87パーセント)、メーガーラヤ(Meghalaya)州(70パーセント)」と伝えている。」ここに記載されている、インド北東部というのがマザー・テレサが活動した、カルカッタのある場所です。迫害もインドでは頻繁にあるようです。でも、マタイ福音書に「平和を実現する人々は、幸いである」と書かれているように、インドのクリスチャンは死を恐れず、憎しみに神の無条件の愛をもって接しているようです。それが、彼らの死生観であり、もともとはイエス様の死生観でした。

もう一度、日本の死生観を考えてみましょう。宇多田ヒカルのお母さんであった、藤圭子も有名な歌手でした。「新宿の女」や「女のブルース」などのヒット曲がありました。しかし、後半生は幸せではなかったようです。カジノなっどで数年間に5億円ものお金を浪費し、最後は預金通帳に数百万しか残っていないと言って、新宿でビルから飛び降りて自殺しました。62歳だったそうです。藤圭子には地位もあったしお金や住むところもったわけです。しかし、なぜ、博打に走ったり、人生を儚く思ったりしてしまったのでしょうか。なぜ、イエス様のように、どんなことがあってもあなたは「幸いである」と思えなかったのでしょうか。神様の無条件の愛を感じることができなかったからでしょう。

その謎を解くカギは、インドのカルカッタの「死者の家」で天使のように死んでいった男の人の言葉に隠されています。彼は、身も体もボロボロでしたが、シスターたちの愛情こもった介護が、神様からのものだと気付いたことでしょう。そして、この世の生涯の終わりに際しても、自分は天使のように、神の僕として愛され、用いられているのだと分かったのです。だから「幸いである」のです。

この、山上の垂訓の後、イエス様はエルサレムに行って教えましたが、それを憎んだ宗教家たちによって十字架にかけられて犯罪者として処刑されましたが、イエス様の「幸いである」という教えは、弟子たちの脳裏に深く刻まれました。迫害されても、食べ物がなくても、体をノコギリで切られても、神の絶対愛を知っているから「幸いである」のです。

それだけではありません。わたしたちの身近で死んだ人たちも、クリスチャンであろうとなかろうと、すべてが神の愛する子供です。そして今日、わたしたちが全聖徒の日に彼らを愛と感謝をもって覚えることによって、既に天に召された彼らも幸いなのです。彼らがこの地上に会った日々、彼らを通してわたしたちも多くの喜びと助けを与えられました。今は、わたしたちが、マザー・テレサの手足となったシスターたちのように、既にこの世の人生を終えた彼らのことを感謝し愛をもって覚えることによって、彼らの魂も救われるのです。彼らも愛を与えられるからです。

古代教会では、洗礼を受けないで亡くなった方々のための死者の洗礼もあったそうです。それは、現在では、異端的な考えとみなされていますが、聖書に書かれていないわけではありません。「神がすべてにおいてすべてとなるためです。そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。」(第一コリント15:28以下)ここにも、亡くなってしまった人達のためにも愛情があったからだと思います。病んでいる人たちを愛情に満ちた看護で天使のように神のもとに送ったマザー・テレサの好きな祈りは、「聖フランシスコの祈り」と呼ばれるものでした。その祈りの最後にこうあります。「わたしたちは与えることにおいて与えられ、赦すことによって赦され、死ぬことにおいて、永遠の命を得ることができるのです。」これこそがキリスト教の死生観です。聖フランシスコはイエス・キリストの十字架のしるしである聖餐式を深く考えたそうです。死の死、終わりの終わり、それが復活です。新しい永遠の命です。この復活のしるしが聖餐式です。

昔から、聖餐式にはイエス様の食卓を囲んで丸く円陣になって集まり、その食卓の反対側の見えない円陣には、すでに点に召された方々を覚えるように教えられています。それが、古来から伝わる聖餐式の美しい情景です。そしてそれは、故人がクリスチャンであろうとなかろうと、神の愛によって覚えられているときに、死の死であり、終わりの終わりとなり、やがて来る、世の終わりの時の復活に結びつくでしょう。わたしたちが天使のように高い天に昇ることができるのは、神の子イエス・キリストが低き貧しき姿を敢えてとってくださり、その尊い体と血とを、罪に汚れてボロボロになったわたしたちのために、深い愛をもって惜しみなく与えてくださったからです。神はどんな人にもセカンドチャンスを与えて下さっているのです。人生の終わりが、神の無条件の愛によって終わりの終わりとなり、新しい始まりになるのです。

さてここで、山上の垂訓の教えを人間の道徳の教えと考える人は、自分が罪人であることが理解できません。そして人を非難したり、自分を非難して、いつも「これではだめだ、あれではだめだ」を繰り返してしまうわけです。ところが、イエス様の教えは、人間のゼロとしたところが幸いだとしているのです。ゼロとは死ぬことです。自分に死ぬことです。自分が貧しくてゼロの時に、神の国はその人に所属しているのだとイエス様は優しく教えたのです。これは、十字架の神学ですね。十字架というゼロになった姿と苦しみを通して、本当の意味の謙遜が実現して、神の国が示されたのです。最初に述べた聖フランシスコも最初は金持ちの息子で高慢な人でした、ところが、ある時、人々から恐れられていたライ病の患者を抱きしめる幻を見たのです。それが実はイエス様の姿だったのです。イエス様は実際にライ病患者の世話もしたわけです。フランシスコはこの夢のあとに、生まれ変わりました。苦しみから逃げず、十字架を抱きしめることができるようになりました。十字架を見るのではないのです。苦しみを自分で抱きしめるのです。その時に、聖霊の働きによって、わたしたちも聖霊によって苦しみを祝福と感じるようになるでしょう。

聖フランシスコはたった一人で争い多い社会に平和をもたらしました。わたしたちも平和の使者です。それは貧しいからこそ可能なのです。

そして、このイエス様の素晴らしい教えは、12節の喜びで完結します。それも、ラッキーなことが起ったから喜ぶのではない。十字架です。イエス様は聖書を詳しく知っていましたから、神に近い人々、特に預言者たちは例外なく迫害されたことを知っていました。神に喜ばれることはこの地上では喜ばれない場合がある、むしろ迫害されることもある。この地上で、御言葉のために苦労し、迫害され、時には命を失うこと、それは喜びなさいとイエス様は教えました。そこは神の御国だからです。教会の働きは喜びの働きです。そこにはもはや悲しみもなく夜もない世界である。全聖徒主日の今日、亡くなった方々を「聖徒」として覚えるのは、御言葉を信じてすでにこの世を去った者たちも、いわば悪魔の迫害と肉体の苦しみを受けたからです。それはしかし幸いなことでもあります。また、まだみ言葉を知らないでこの世を去った者たちも、御言葉を信じているわたしたちが彼らを覚えとりなすことによって、闇から光に移されるでしょう。聖餐式も聖壇を中心とし生きている者と昇天したものが主の食卓を囲みます。愛なる神は不可能を可能にしてくださる、十字架を通して死を復活の命に変えてくださるのです。だから幸いなのです。

-今週の説教