クリスマスの知らせが困難を乗り越えさせる祝福であることを悟らせる説教
「必ず良いことが起る」 ルカ1:26-38
キリスト教が何かと問われれば、それは宗教倫理ではなく、イエス・キリストの福音だと思います。福音とは良い知らせですから、イエス・キリストという救い主の良い知らせのことです。それがどのように良い知らせなのかは聖書を読むとわかります。
今日の福音書の日課には、「イエスの誕生が予告される」とありまして、これはまさしく良い知らせではないでしょうか。この記事はルカ福音書にしかありません。ここには、処女受胎という人間的には分かりにくい事柄、福音としてはまさに福音の中心的事柄が書いてあります。クリスマスでお祝いする、イエス・キリストの降誕そのものが奇跡であるというのです。記事の中で最初に登場するのは、天使ガブリエルです。キリスト教でガブリエルはミカエル、ラファエルと共に三大天使の一人であると考えられています。聖書においてガブリエルは「神のことばを伝える天使」の役割をもっています。元来ガヴリー・エールという名前は「神の人」あるいは「神は力強い」という意味でした。この天使も、それ存在自体が尊いのではなく、神から遣わされているメッセンジャーだったという事が貴いわけです。聖書の世界では、たとえ天使であっても、神以外のものを崇拝することを、偶像礼拝とみなします。それが、キリスト教の教えのコアっでもあるわけです。マリアを愛する神さまが、霊的な助けである天使を送ったのです。その場所はガリラヤのナザレでした。
この天使ガブリエルは、ダビデ家の子孫であるヨセフのいいなずけであったマリアに現れました。ヨセフはダビデ王の末裔ですから、身分は低くはなかったのでしょう。その婚約者のマリアに天使が挨拶しました。マリアも親戚にザカリアという神殿の祭司がいました。神と無関係の家系ではありませんでした。ただそれ以上の事はわかりません。その天使ガブリエルはマリアに「こんにちは。これまで寵愛を受けてきたものよ、主はあなたと共にいる」と告げました。この部分の原典のギリシア語では、現在完了受動態でかいてあるため、マリアがこの時に突然恵まれたのではなく、これまでずっと主の恵みに生かされてきた人であった、という状況がわかります。
余談ですが、この現在完了受動態を悟ることが、救いの認識でもあるわけです。ある種の宗教では、厳しい修行の後で、能動態完了形で救いを表現します。つまり、これまで苦労して頑張ってきたから、あなたは救われました、という意味です。しかし、現在完了受動態は違います。あなたの功績や、あなたの悪行とは全く無関係に、つまり個人評価なしに、あなかはこれまでずっと主の恵みに生かされてきましたね、という意味なのです。人によって把握の仕方に差はあるでしょうが、わたし自身はこのような救済観を宗教改革の信仰から受け継いでいます。これまでの人生を振り返ってみれば、皆さんにも思い当たる点があるのではないでしょうか。それを、自分を起点としてみるのではなく、創造者である神を起点としてみているのが、聖書の中心思想です。マリアに起こった出来事は、まさにこの聖書思想の具体化でもありました。
そして、主はそれを理解できる信仰をもった人物を選んだのです。ただ、ここでもマリア自身のことは賛美されません。イエス・キリストの降誕の奇跡の中で、神に選ばれたマリアという人間も、基本的にはわたしたちと同じであって、特別な存在ではないからです。マリアをテオ・トコス(神の母)として崇拝するカトリック教会の方法は、その他の聖人の崇拝と共に、聖書が禁じている偶像礼拝に移行していると思われます。ユダヤ教の歴史の中にも聖人はいますが、彼らは尊敬はされても、礼拝対象ではありません。人間が重要なのではなく、神の働きが中心だからです。そして、そのことは、聖人だけが救われるのではなく、悪人も信仰によって救われるという教えのコアになっています。
このように、どこにっでもいる人物のようなマリアを天使は祝福しました。しかし、マリアには最初その意味がわかりませんでした。彼女は天使による祝福の挨拶の意味が理解っできなかったのです。それどころか、不安になり、胸騒ぎがしたわけです。何か重大なことが起る前兆ともいえます。彼女の様子を見て、天使ガブリエルは「恐れるな」と呼びかけ安心させています。天使の登場は、普通の人間には、神との接点となるわけですから、怖れの対象でしかありませんでした。しかし、天使は恐れないように励まします。まさに、「神のことばを伝える天使」の役割を果たしたわけです。そして、この天使のお告げが、裁きではなく祝福でした。(私見ですが、日曜日の説教も、基本的には祝福だと思っています。)そして、マリアは神の特別のご厚意にあずかり、子供を授かると天使が語ったのです。子供の誕生が第一の重要性ではなく、神の好意を受けた者であることが第一の強調点でした。そして、つけるべき名前はイエス、旧約時代の名前ではヨシュアでした。そして、この子供はダビデの王権を受け継ぐものとなり、いとたかき神の子なのだというのです。ですが、マリアはまだ結婚もしてなかったのです!そして、男性との関係もなかったので、どうしてそのようなことが可能なのか天使に問いかけました。どんなに素晴らしい話でも、それに根拠がなくては単なる夢物語にすぎません。その点をマリアは聞きたかったのです。
天使は答えました。まず聖霊が、天から降ることです。教会の誕生も聖霊が降ることで始まりました。イエス様の洗礼の際にも聖霊が降りました。神の霊が降臨し、神の力が影を落とすというのです。ある日本の神学者はこう書いています。「洗礼を受けるという時、あまり教会にきたこともない人が、突然聖霊を受ける場合があります。しかも、それはいい加減なことではないのです。すでに立派に霊の洗礼をうけているのです。こういうことが、時たまあります。不思議ですね。」わたしが、毎月、伝道説教に行っている静岡県の菊川教会でも、この事実を目撃することがあります。つまり、人間の思惑ではなく、神の世界が現出するのです。それを教会では感じます。マリアの場合も、自分の力ではなく、上なる神の力と聖霊によって聖なる者が誕生するという嬉しい知らせを受けました。普通、人間と神の間には決して越えられない溝があるというのがユダヤ人の考え方でした。それなのに、神自身がこの溝を埋めてくださったのです。そして、マリアを通して救い主を誕生させようと告げたのです。そして、天使は、親戚の祭司の家系であったザカリアの不妊の妻エリザベトにももうすぐ子供が生まれると告げています。これは、マリアにも驚きだったことでしょう。特にザカリア夫妻は南部のエルサレムに住み、マリアは北部のナザレで生活し、両者は遠く離れて住んでいたので、このことは驚きだったことでしょう。
そこで、まだ驚き迷うマリアに天使は、「神にできないことは何一つない」と言って聞かせます。この言葉は、イエス様ご自身も好んで使った言葉で、おそらくお母さんのマリアから何度も聞かされた言葉でしょう。神中心の聖書思想のコアです。そして、それも元々はマリアの言葉ではなく天使の言葉だったのです。それをいくつか見てみましょう。最初は創世記18:14、不妊の妻サラに子供が生まれると神がアブラハムに語った部分です。「神にできないことは何一つない」次に、エレミヤ書32:17、エレミヤが牢屋に入れられていた時に祈ったことばです。「神にできないことは何一つない」そして、マタイ19:26、金持ちが天国に入るのは難しいという話で、人間にはできないが神にできないことはない。その他の福音書にも平行記事が見られます。そして、ローマ4:21、パウロがアブラハムの信仰に触れ、神が不可能を可能にする方だと認めることが信仰による義であること。それは、わたしたちのためでもあること。「神にできないことは何一つない」というのが実は信仰の奥義なのだという事でした。マリアはこれを信じました。そして、その信じた証拠に、お言葉通りこの身になりますようにと、受け入れたのです。とんでもないことが起こるという驚きから、一転して、神の御心を知り、神の力において不可能なことはない、子供はダビデの王権を受け継ぐものとなる聖なる者を誕生させて下さるのだという確信を与えられ、喜びをもってこの知らせを聞き、クリスマスの準備が完了したのです。
ダビデの王権を受け継ぐものとは、遠い昔の異国の物語ではなく、イエス様が最初であり、わたしたちが後に続くという筋書きなのです。
こんな話があります。昔々、あるドイツの大学町に貧乏な靴屋さんがいました。貧乏だけど楽しそうに仕事していました。そこを通りかかった学生が、「お金もなさそうなのにどうして、いつも嬉しそうなのですか」と尋ねました。「わしはこの腕しか財産はありません。このやせ腕で大勢の家族を養うことができているのです。それに、わたしは立派な王様のむすこ、つまり王子様なのです。」それを聞くと学生は馬鹿にして笑いながら言ってしまいました。一週間後、学生が靴屋の前を通り過ぎた時、彼はまた馬鹿にして「幸せな王子様こんにちは」と挨拶しました。靴屋さんは「あなたは私の言ったことにあきれていましたが、そうでない証拠はこの本に書いてあります。」そういって、学生に、わたしたちが王の王である神さまの愛する子、つまり王子であることを説明しました。そして、その後もたくさんの大学生を神に導いたそうです。これも、わたしたちが後に続くという筋書きをわかりやすく解説した例話なのでしょう。
ローマ書16:26に、福音は「信仰による従順に導くため」だと書いてあります。わたしたちも、「神にできないことは何一つない」と心から信じる時に、信仰によって義とされクリスマスを迎える喜びの準備が完成します。もはや、自分が生きているのではなく、神の聖霊によって生かされているという自覚が生まれます。まさに、例話の中の靴屋さんであり、神の子なのです。
神は意識の外におられるのではなく、原罪の働きに悩むわたしたちの存在自体の真っただ中にも宿って下さり、恵みを絶やさないでくださる、という力強い確信です。パウロも、自分の罪は自覚していましたが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)と述べています。自分が小さくなればなるほど、神の奇跡の働きが大きくなります。神中心の聖書信仰のコアが見えてくることが、聖書の告げるグッドニュース(福音)そのものです。クリスマスを通して、さらに深く福音を自覚したいものです。皆さんに神の祝福と、天使のお告げがありますように祈ります。メリー・クリスマス!