坪井慶介氏の「ほったらかしの愛」と神の愛
山梨県には「ほったらかし温泉」という場所があります。小高い山の頂上に設置された露天風呂で、180度の視界があり、下界をながめると、さながら天空の温泉のようです。「ほったらかし」の意味は「自由にやってください」ということだと思います。最近のネット記事に、サッカーの名選手、坪井慶介氏の家庭の「ほったらかし」子育てのことが出ていて興味深く読みました。「ほったらかし」ですから親は、子供の進路を考えたり、熱心にサポートするわけでもないのです。しかし、この自由放任主義の裏には、子供に対する信頼と、親と子供の双方における自己責任の大切さに裏打ちされた愛があるのです。これを読んで、これは神の愛に似ているなと思いました。「あなたの目は悪を見るにはあまりにも清い。人の労苦に目を留めながら、捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか。」(ハバクク書1章13節)「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。」(第一コリント13章4節)神は愛だと聖書に書かれています。つまり、この愛は、人間に自由(ほったらかし)を与えた神の側での忍耐の愛なのでしょう。それは、命令や脅かしや懲罰で教育するのではなく、自分で考え、自分で行動し、自分で正しく生きる道(神と共に歩むこと)を発見するように見守る、創造主の親心の発現だとも言えるでしょう。仏教では、生病老死の苦しみから悟ることや、解脱することを教えましたが、生病老死ですら、神の「ほったらかしの愛」を示してはいないでしょうか。