人生に座礁し多くを失い苦しみ傷ついた人に明るい希望を与える聖書の言葉
「網を使いなさい」 ルカ5:1-11
どんな仕事にも道具があります。イエス様の弟子たちの多くは漁師でしたので、彼らが魚を取る道具は網でした。当時は、エジプトなどでも広く使用されていた麻で作った網が一般的だったようです。網は生活の中心でした。けれど、彼らは網の使い方を本当に知っていたでしょうか。
ガリラヤ湖畔に集まった人々の中にも漁業関係の人が多くいたでしょう。舟や網などの漁具、水産加工業、水産物販売業、などです。彼らの生活がそれで成り立っていたのです。イエス様の職業は石工でしたが、彼の弟子たちの多くは水産業に携わる人々でした。また、この地域に住む多くの群衆はイエス様の言葉を聞き、癒しの奇跡を実際に見たいと願っていました。
イエス様はいつも重荷を負った群衆のことを心にかけ、彼らの悲惨な状況を憐れんでいました。そして、そうした人々に神の愛を知ってほしいと願っていました。勿論、彼らもユダヤ人ですから、聖書の教えについては何となくは知っていたと思います。しかし、聖書理解は特定の人に限られていたと思います。これは現代の日本でも同じです。本格的な仏教を知っていれば、現代の多くの新興宗教が、仏陀の清貧の教えとは違ったものになっていることがわかるはずです。
さて、2節を見ますと、漁師たちが舟を岸につけて網を洗っていたとあります。おそらく、朝早く漁に出てから戻ってきたのですから、時間はすでに正午前後だったのでしょう。なにもとれなかったので舟は空でした。漁業はある面では運任せです。そして、他の職種とは違って、漁が済んでしまえば漁師はしばらく休みます。
彼らの様子を見たイエス様は、同じく漁師だった弟子のシモン・ペトロの舟を借りてすこし岸から離れたところに漕ぎ出し、岸に並ぶ人々に語り始めました。なんとも賢いアプローチではないでしょうか。岸で一休みしている漁師たちだから、説教の効果が期待できたのです。伝道とは、こうでなくてはいけません。相手が聞く用意ができてないときに語っても効果は期待できません。
イエス様が行った方法は、ギリシアの古代劇場の演出効果に似ています。わたしもイスラエルに住んでいた時は、古代の円形劇場の遺跡を訪れたことがありましたが、これは、舞台が一番低いところにあって座席が半円形に階段状になって舞台を囲んでいます。陸上競技場を半分に切った形に似ています。ここでは驚くほど声が届くのですね。ですから、イエス様の場合のように野外でも、岸の方が傾斜していると、円形劇場の原理で、低い水面からの声が驚くほどよく響くのです。イエス様はこの原理を応用して大勢の人々に語りかけたのでしょう。腰を下ろしていたのもわかります。小舟では立っていると安定が悪いからです。聖書の記述は、事実に基づいているので、本当にリアルな状況描写となっています。そこに、聖書の信頼性が現れているともいえないでしょうか。つまり、目撃者の記述なのです。証言を集めたものだと言っても過言ではないでしょう。こうした点は、実際にイスラエルで現場を見るという経験があると理解できると思います。警察などで事件の現場検証をするのと同じですね。そうした意味では、イスラエルに住んだ経験があるわたしが、皆さんにお伝えできるのは幸いだと思っています。
また聖書の箇所に戻りますと、漁師たちに舟から語ったイエス様は、日々の漁業のなりわいに追われている人々に、聖書の基本概念である神の愛、救い、日々の悔い改めなどを説いたのです。これを、ペトロも聞いていたでしょう。
その後、ある特別なことが突然起りました。おそらく岸で休息していた多くの人々は、イエス様の話に少し関心を持ったとしても、すぐに飽きてしまったことでしょう。これは現代の人びとも同じです。神の愛や悔い改めを教会で語っても、反応が持続するわけではありません。教会員は漁師とは違い、聖書を読めるという識字力があり、信仰心もあるのですが、残念なことに、ほとんどの説教は「金太郎飴」のように、大同小異だと思います。それが、現代の伝道方法の弱点です。この弱点を少しでも克服するための方法をわたしは模索しています。
さて、イエス様は停滞した群衆たちの関心はものともせず、もう一度沖に舟を出して漁をしなさいと言ったのです。これには、トロンとした目の人びとも驚いたでしょうね。逆に目を皿のようにして、事態の転換を見守ったと思います。なぜなら、それは完全に無理な話だったからです。プロの漁師たちが一晩中働いても獲物がなかったのに、ド素人のイエス様が魚をとることなんか、できるはずがなかったからです。人間心理は面白いものです。成功にも驚きますが、人の失敗にも興味があるものです。そうなんです、彼らが興味を持ったのは、イエス様の大失敗の見ることだったのです。
たとえば、わたしが説教の途中で、喉を潤すコップの水を飲む代わりに間違って頭からブッカケてしまったらどうでしょう。会衆は、きっとその時の聖書のメッセージよりも、この奇妙な出来事の方をいつまでも記憶するでしょう。なぜなら、それは「日常性」という認識の曇りガラスを破壊する行為だからです。前に述べましたが、説教の障害になっているものの一つはまさに「日常性」なのです。日本でも外国でも、お笑い芸人に人気があるのは、彼らが「見えていませんよ!」などと言って「日常性」を破ることによって、笑いを取っているからです。
では、イエス様の時はどうだったでしょうか。イエス様は大工(石工)の仕事をしていた方であり、漁業に関してはド素人です。そこで、ペトロは少し反論しました。しかし、彼は信仰的に判断しました。そして言いました。「しかし、お言葉ですから、そうしましょう。」
これは現代のクリスチャンにとっても大切なことです。わたしたちの習慣や、常識がありますから、たとえ天使がわたしたちに直接に語ったとしても、すぐに受け入れることはできないかも知れません。けれども、聖書を見ますと、信仰とは確固とした自分の信念のことではありません。また、信仰とは、勿論、知識でもありません。イエス様の弟子たちは、当時のユダヤ教の難しい理論や神学をやっていたわけでもなく、ユダヤ教の会堂に熱心に通っていたわけでもないでしょう。彼らは文人ではなく労働者だったからです。彼らの生活の関心事は網を使う漁業だったのです。しかし、イエス様に出会ったシモン・ペトロは信仰的に答える事ができました。「しかし、お言葉ですから、そうしましょう。」これがまさに、聖書が伝える正真正銘の信仰です。
わたしたちの場合でも同じです。難しい解釈は必要ないです。それの多くは、人間の肉(ギリシア語のサルクス、罪の根源)から来ている場合があるからです。そうした理屈や道理を避けて、神さまが新しい道を示したら、「しかし、お言葉ですから、そうしましょう」といって、行動に移すことが肝要です。信仰の新しい地平が開けること間違いなしです。何故なら、これは、人間の努力で言える言葉ではないからです。もし、ペトロが、過去の経験や自分の漁師としてのプライドに縛られていたらきっと、絶対に、完全に、究極的にどんなに無理しても言えなかった言葉、それが「しかし、お言葉ですから、そうしましょう」だったのです。まあ、わたしの考えでは、この言葉がペトロの口から出た時点で、奇跡だと言えるでしょうね。
それは単なる言葉ではなく、実に新しい人生の網だったのです。聖書の他の箇所を見ても、イエス様は信仰心のないところでは奇跡はおこしていません。ですから、イエス様は、パフォーマーである魔術師やマジシャンではないのです。お笑い芸人でもありません。ただ、「しかし、お言葉ですから、そうしましょう」という信仰の網が生まれたところで奇跡が起こったのです。
わたしたちの、周囲でも同じではないでしょうか。ダイエットひとつでも、別に高価なサプリメントや道具やベルト(アブトロ等)を買わなくても、健康な生活をしなさい、という神の示しに、自分の欲望は反対しても「しかし、お言葉ですから、そうしましょう」と言える時に大きな変化と良い結果は必ず起こるものです。こうして、わたしたちの石のように頑固な意志(サルクス)が変わるという事自体がすでに奇跡なのです。神は人を生まれ変わらせること、エゼキエル11:19「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える。」という預言はすでにあったのです。「しかし、お言葉ですから、そうしましょう」と言える時にすべてを可能とする霊の心が現れているのです。
そして、他の漁師も従いました。独りでは網をおろせません。おそらく、ペトロにはリーダーシップがあったのでしょう。すると、6節にあるように網が破れそうになるほどに魚がとれました。もう一艘の舟にも助けを呼んで、魚を舟に挙げましたが、その重さで舟が沈みそうでした。大漁でした。それも、魚の取れやすい早朝ではなく日中のことであり、人々が見ている岸から遠くないところで起こったのです。
この結果、ペトロも仲間の者もイエス様の神の力の前に敬服しました。もう誰も、イエス様のことを笑う人はいませんでした。神様の働きが、彼らの「日常性」という認識の曇りガラスを徹底的に破壊したからです。
この場面の素晴らしいところは、漁師たちが大漁に喜んで満足してという、物質的な結論になっていないことです。ペトロの視線は、儲けや利益ではなく、神の人イエス・キリストの偉大な顕現に向けられ、彼は語り尽くせないほどの畏怖の念を持ったのです。それはまた、自分の罪を自覚し、悔い改める時に、逆に、救いの光が現されるのと同じです。聖書の中では、使徒言行録に、パウロの回心として記録されていますね。それは、神の御子イエス・キリストの神性が現される時であり、救いの顕現であり、顕現節のテーマです。こうして、イエス様が少し前に舟から群衆の前で語った、神の愛、救い、日々の悔い改めの教えはペトロの心で実を結んだのです。
彼等は、毎日網を使って漁をしていました。しかし、その網は人間の作った網であり、どんなに高価でどんなに品質の良い網であっても網は網です。網を打ったところに魚がいなければ落ち葉や水草がかかるだけです。イエス様はそのことを良くご存知でした。漁こそまさに神さまが魚を寄せてくださらなければ漁は成功しないのです。かつて、発明王であり、熱心なクリスチャンだったトーマス・エジソンが言いました。「天才とは1パーセントのひらめきと、99パーセントの努力である。」これでは、網を下す前のペトロ的な解釈です。エジソンが本当に言いたかった意味はこれです。「天才に必要なのは1パーセントの聖霊であって、この聖霊の働きがあるからこそ99パーセントの努力が生きる。」
さて、わたしたちは自分の人生という網の使い方を本当に知っているでしょうか。神の聖霊の招きに従って「しかし、お言葉ですから、そうしましょう」と言える時を待ちたいものですね。その時は、迷わず人生の舟を沖に出しましょう。つまり、行動に移りましょう。きっと聖霊の働きを体験することになるでしょう。なぜなら、信じて行動に移すことが正真正銘の信仰だからです。
イエス様は現代に生きるわたしたちにも、不毛な人生の理不尽な試練にあえぐ時にも、あなたが既に持っている網を使いなさいと命じています。それは、諦めかかった心、傷ついた心、怠惰になってしまった心、冷えきってしまった心、かたくなな心、石のようになった心に、再び神の愛の熱い、熱い、霊の血潮を燃え立たせるのです。もし、このメッセージを読んでくださっている「あなたが」ここまで長い文を読んだとしたら、それ自体が既に神の奇跡であると思います。
神は神の子イエス・キリストを通して「網を下しなさい」命じました。この言葉に従ったペトロたちは、神の働きを実感しました。そこで、イエス様は彼に、「今後、あなたは人をとる漁師になる」と語りかけました。それは、彼の可能性をすべて見ていたのです。聖書に、「体は一つの部分ではなく、多くの部分で成り立っています」(第一コリント12:14)とあるように、すべての人が伝道者になる使命を負っているわけではありません。それはそれでよいのです。神はすべての人を愛し、その人だけが持つ、その人の独自の人生の網を用いるように勧めています。つまり、ほかの人と同じ網ではなく、あなた固有の網です。これは使命や職業と同じです。ドイツ語では職業はベルーフ、英語ではコーリング、神に呼びかけられたこと、という受動態の単語が用いられます。つまり、人生の網は、自分で選んだのではなく、受動態として、選ばれて与えられたものなのです。
わたしたちも一人一人がベルーフを受けています。ですから、その働きは体の各部分の働きと同じように、重要でないものは一つもないすばらしい賜物だと教えられています。「しかし、お言葉ですから、そうしましょう」と言える時が既にきています。そして、わたしたち一人一人は、自分が受動態的に与えられている人生の網を即座におろし、大きな喜びの収穫を体験したいものです。神はわたしたちを愛し、わたしたちの人生に使命を与え、人生の網を豊かに満たしてくださるのです。あなたの網を用いて下さい!